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Part2 〜僕らに今、Discoが必要な理由〜
ニューヨーク・ディスコとディスコ・ミュージックの歴史1

 まず一体ディスコとは?

 そもそもディスコという語源はフランス語のディスコティークから来ています。皆さんご存知のとおり、ディスコにはバー・スペースとは別に、DJブースと呼ばれるターンテーブルやミキサーが設置してある場所があり、DJがいてレコードを(今はCDやUSBメモリーだったり、PCだったりもしますが)プレイし、音楽で客を踊られるフロアのある場所の事を言います。諸説ありますが、まずそのディスコティークってどうやって生まれて来たかと言うと・・・・

 時は1940年代、第二次世界大戦下のフランスでのお話。ナチス・ドイツの占領下にあったパリではそれまでは日常的に行われていた、人々がビッグバンドに合わせて集い踊るという行為を禁止されていました(つい先日までの我が国のクラブ状況のようでもありますが)。それでも、いやむしろそんな状況だからこそパリの人々はドイツ軍の目から逃れて、隠れてでも集い踊りたいと思い始めます。やがて人々は密かに示し合わせ、皆が寝しずまった深夜に秘密裏に隠れた場所に集い合うようになりました。そこではもちろん生のバンド演奏を求める事はできませんので、各々持ち寄ったレコードに合わせて人々は踊り続け、ひととき占領下の不安を忘れる時を過ごしたのでした。やがてそうしてレコード=ディスクに合わせて踊る場所の事を人々はディスコティーク(「ディスコ(レコード)」の「ティーク(集積場)」と呼ぶようになっていったのです。

 享楽的に語られることが多いディスコという場所には、実はそんな誕生の逸話があるのです。そしてディスコは生まれ落ちた最初から、日常の抑制から逃げ出す為の場所、アンダーグラウンドな場所だったんです。

 戦後、1947年にパリに生まれた“Whisky à Go-Go”はヨーロッパで最初の(公式な)ディスコティークと名乗り、解放後もポジティブに「レコードで踊る」文化を海外へも広めたヴェニューとなりました。支配人を務め「パリの夜の女王」とまで呼ばれたレジーナ・ジルベルグは後に歌手/女優としても名を馳せましたが、彼女がユダヤ系ポーランド人だったという事もナチ占領下に生まれた戦中のディスコの誕生秘話とリンクして感じてしまいます。

 1947年に誕生し、アメリカで最初のディスコと呼ばれている “Whisky a Go Go”も創業者エルマー・バレンタインが旅の途中に立ち寄った“Whisky à Go-Go”の熱狂ぶりに刺激を受け、その名前を借り受けてウェスト・ハリウッド、サンセット・ブールバードにオープンさせたものでした。後にミラクルズに「Going To A Go-Go」(さらに後にはローリング・ストーンズもカバー)と歌われたヒット曲を生み、オーティス・レディングに「In Person at the Whisky a Go Go」というライブ・アルバムを作らせる程の人気ヴェニューは、そうしたパリからの輸入文化が始まりでした。そんなフランス生まれのディスコティークが、後にディスコの街とも呼ばれるニューヨークに登場したのは一体いつ頃のお話なのでしょうか?その前に戦後のアメリカのダンスとダンス・ミュージックの流れについて少し書いてみます。

 戦後のアメリカでダンス・ミュージックとして流行っていたひとつが戦前からの流れもあって、すっかりメインストリームとも言えるほど一般的になっていたジャズ。戦後にはスイング・ジャズに飽き足りなくなったプレーヤー達による、自由なアドリブを主体としたビバップというスタイルが生まれ、劇的な興奮を生むアドリブに人々は熱狂し、人気プレーヤーも次々に生まれていきました。大小様々なダンスホールには日夜、人気ジャズ楽団による演奏に熱狂し、様々に踊る人々が詰めかけました。

 そうしたダンス・ブームを下地に’50年代に入ると、よりエキゾチックでエキサイティングな音楽がダンス・ミュージックとして人気となっていきます。南米生まれの音楽、ラテン・ミュージックです。戦前にもキューバのドン・アスピアス楽団による「南京売り」という曲はルンバというジャンルの呼称をも生み(キューバではソンと呼ばれるジャンルでした)、アメリカだけでなくヨーロッパ全土で大ヒット。さらに’50年代にはニューヨークのラテン・コミュニティーから生まれ発信された新たな音楽が世界的なダンス・ミュージックの流行を生んで行きました。

 陽気で官能的、そしてエキゾチックというアメリカ人がステレオ・タイプに思い浮かべるラテン・ミュージックのイメージ全てをまとったその音楽は、マンボと呼ばれました。ビッグバンド・ジャズにも通じる派手なブラス・セクションを強調させたペレス・プラード楽団の一連のヒットや、ポルトガル生まれでブラジルで活躍してきた歌手/女優のカルメン・ミランダのハリウッドでの大成功など、様々な角度からラテン・ミュージックは一般のものとなっていきます。音楽同様に陽気で官能的でエキゾチックというステレオ・タイプに誇張されたカルメン・ミランダの誇張された性的イメージが、その後のクラブ・カルチャーとは切っても切れない関わりを持つドラッグ・クイーンにも受け継がれていることも興味深い事だと思っています。

 ‘60年代に入るとさらにアメリカ全土で、個々でステップを踏むダンスが大流行、ダンス狂時代(Dance Fad)と言われる、多様なダンスが次々に生まれました。ブーガルー、ツイスト、フライ、スイム、ジャーク、モンキー、マッシュポテト(ちなみに僕の芸名、ワトゥーシー/Watusiもこの時代の踊り方のひとつから頂きました)と呼ばれた様々な踊り方で人々はダンスに熱狂していきました。本書を読まれている方で、映画ブルース・ブラザーズをご覧なった方もいらっしゃる事と思いますが、その中でレイ・チャールズ演じるアンクル・レイの号令でストリートに沢山のエキストラ達が繰り出し、前述の様々な踊り方で盛り上がる最高のシーンがあった事を思い出してみてください。ダンス狂時代の様相が少し理解できるかと思います。実はそうしたブームの背景には、やはり深刻な経済不況や人種差別など不安定な社会状況も影響していました。この時代にも、人々は日常が抑圧されて行くとダンスにそのはけ口を求める、そんな図式が続いていたようです。人々にとってダンスとは音楽さえあれば、お金がなくても簡単に楽しめ、日常の不満や不安を晴らす娯楽として欠かせないものでした。そうしてダンサー達は夜な夜なダンス・フロアのあるナイト・クラブに通い、様々なステップを踏みひと時、日常を忘れていたようです。

 そんなダンス狂時代にニューヨークで最初のディスコと呼ばれるヴェニューが生まれます。数々の諸説がある正に水っぽい界隈の話ですが、ニューヨークにおけるディスコの先駆けとなったヴェニューは、1960年の大晦日にオープンした“Le Club”だというのが俗説となっています。その後、次々にダンス・フロアのあるナイト・クラブはオープンして行きましたが、今に繋がる、DJブースがありダンス・フロアを備えた、ディスコ的なヴェニューである“Arthur”がニューヨークにオープンしたのは、それから少し経った1965年5月の事でした。

 1965年というと・・・これ以降のニューヨークのディスコ・カルチャーやその歴史に大きな影響を与えるひとつ、ゲイ・カルチャーの歴史に大きな影響を与える、ソドミー法と言う口内性交や肛門性交等という特定の性行為を性犯罪とする法律が制定された年でもありました。もっと分かりやすく書くと、イリノイ州を除く全州が、同性間性交渉、男性同士のSEXを法によって処罰できる法律が制定させた年と同時にニューヨークにディスコは生まれ落ちたのです。この事もニューヨークのディスコ・カルチャーとも分けては考えられない事実になっていきますが、その辺りはまた後に。

 “Arthur”にはDJブースがあり専属のDJもいましたが、ナイト・クラブでの生バンドがそうだったように、1枚のレコードをかけ終えると次のレコードをかけるまでは、当たり前のことですが、しばし音が止まっていました。そんなディスコに新しい風を吹かせたのも実は“Arthur”。

「レギュラーDJのひとり、テリー・ノエルがDJブースに2台のターンテーブルを持ち込み、最初の曲をフェイド・アウトするやいなや、もう一台のターンテーブルで次の曲をかけ始め、音の途切れる事の無いプレイをし始めたのです。フロアの人々は休むことなく踊り続けられるそうしたプレイに熱狂し、次第に複数のターンテーブルによる音の途切れることの無いプレイ・スタイルがディスコDJの基本となっていったのです。」

 1967年には “Electric Circus”という伝説的なヴェニューがニューヨークにオープンしました。当時のアメリカは終わりの見えない泥沼のヴェトナム戦争の真っただ中。そんな政府への苛立ちや反動もあり、先行しロックを中心とした野外フェスが盛り上がり、ヒッピーが生まれ、やがてサイケデリックが音楽やファッションでもブームとなっていき、同時にLSDを始めとするドラッグが若者達の間に蔓延していく時代でもありました。それが、「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれた時代です。当然“Electric Circus”では大量のLSDが服用され、人々は益々現実逃避する場としてディスコを選び、足を運みました。そしてそこでは、そうした場に似合ったルー・リード率いるヴェルベット・アンダーグラウンドや、グレイトフル・デッド達のような長い演奏を得意とするジャム・バンド、またミニマルやアバンギャルド等の前衛的なバンドが出演していくようになりました。開店前から話題の的となっていた“Electric Circus”のオープニングの夜には、740名程しかないキャパシティに3,000人以上が集まる程の大人気だったようです。

 「サマー・オブ・ラブ」の時代と呼ばれた1960年代後半を迎え、当然当局もそんな時代の若者達に対しての対応=規制が強まります。急遽、1967年にアメリカ全土でLSDの一般の使用を全面的に禁止する法が制定されます。そう!実はそれまではLSDの使用は法的にはOK、そんな時代でもありました。

 翌年、1968年にはアフリカ系アメリカ人の公民権運動の指導者として活動してきたキング牧師(マーティン・ルーサー・キング Jr.)が暗殺されるという悲劇が起きました。徹底した「非暴力主義」を運動の基本として提唱して来た彼の暗殺は、国内の数多くの都市で怒りに包まれたアフリカ系アメリカ人による暴動を生みました(スティーヴィー・ワンダーのディスコでもお馴染みの「Happy Birthday」という曲は「キング牧師の誕生日を祝日にしよう」という彼の運動に捧げた曲なんです)。

 「そんな先の見えない、大きなフラストレーションを抱えながら、ニューヨークのアフリカ系アメリカ人、ヒスパニック系の住人達やゲイの男性達、いわゆる非白人のクィアと呼ばれる人々は夜な夜なディスコに通い詰めるようになって行きましたが、まだまだ時代はソドミー法や世の中一般の慣習によりゲイのカップルは各々を分離する事が基本となっていましたので、ディスコ内でも男性同士で踊る事は禁止されていました。当然アフリカ系アメリカ人が白人系アメリカ人のパーティに立ち入る事も慣習的に禁じられていました(公共のバスでさえ、座席が区別されていた時代です)。そんな中のキング牧師の暗殺は、ニューヨークのディスコに集う彼らに一層、そうした差別に対して激しい闘争の火が芽生え始めて行きました。」

 やがてアフリカ系アメリカ人達の伝統的な音楽とゲイの男性達の価値観、その両方を兼ね備えたパーティをディスコで作り出そうと動き始めるグループが動き出します。やがてニューヨークのあちこちのディスコで密やかに始まったのはゲイ男性のアフリカ系アメリカ人達によるパーティ。そのパーティではそれまで隔たりのあったゲイ同士やアフリカ系アメリカ人と白人達とをディスコというキーワードによって結びつける事になっていきます。ディスコが繋がる=ユナイトする場所になって行ったのです。

 ディスコという場所が日常から逃れ一時興じる場所から、コミュニティとしての場という新たな意味合いを持っていく事になり、ディスコという場所からユニティ!というスローガンが生まれていきます。そしてその意味合いは、以降のカルチャー自体をも大きく変えて行くことになって行くのです。

 アフリカ系アメリカ人達のゲイ男性によるパーティが各地で催されるようになって行った60年代後半のニューヨーク。男性同士が一緒に踊る事を禁じられていた時代でしたので、彼らは警官達がやってこない場所を各地で各々作り出し、パーティを開き続けていくうちに、次第にコミュニティとしての集団的意識を高めていくようになっていったのです。

 時代はロックンロールの第二次黄金期。反抗と自由の象徴でもあるロックンロールは多くのフラワー・チルドレンと反戦運動をも産んで行きま下が、1969年にはそうした自由を求める空気がアメリカ中を覆い、ニューヨークのゲイエリアでも同性愛を肯定するコミュニティを作ろうという動きが見られるようにもなっていきました。しかし反戦運動以上にそうした動きに対し当局は締め付けを強めて行く事となり、ゲイバーの出口には警察の護送車が常駐し、ゲイ達が集うと警官が追い出しにかかるという日常が繰り返されて行きました。

 そんな中、1969年6月28日。同性愛に理解を示していた数少ない著名人の一人で、ゲイの男性達にも大きな人気があったジュディ・ガーランドの睡眠薬の過剰服用による突然の死に、ニューヨークの沢山のゲイ達も皆ショックを受けていた夜の事です。

 「実は同性愛者のことを指すスラングの一つに「ドロシーのお友達 (Friends of Dorothy)」というものがあるのですが、これはジュディ・ガーランドが『オズの魔法使い』で演じた少女役ドロシーから来ています。今でもLGBTのイベントで必ずかかる『虹の彼方に (Over the Rainbow)』もこのミュージカル映画の曲で、当時からゲイとジュディ・ガーランドは強い信念のある結びつきがありました。ヴィレッジにあるゲイバー “Stonewall In”でも当日葬列に参加し者たちを中心に店内中に追悼の空気が流れていた夜でした。そこにいつものように突然警察が現れ、溢れかえっていた店内から、ゲイの客を連れ出し始めた時の事。始まりは数人のドラッグ・クイーン達が警官に悪態をつき、硬貨などを投げ始めたことからでした。既に人々が強いストレスを感じて過ごしていたその夜は、次第に回りの群衆達もがその輪に加わって行き・・・・徐々に緊張感が一気に高まっていく中、ひとりのレズビアンが警官に無理矢理連れ出されるのを強く拒んだ瞬間、その周りに人々は溜め込んでいた感情を一気に吐き出したのです。」

 「彼らは手にビール瓶や石、レンガをとり、矢継ぎに警官に投げ始めたのです。一人の警官のこめかみにビール瓶が強打され、怯んだ警察官は店内に逃げ込み、必死に防戦する一方の状況になりました。やがって集まってきた援軍であるパトカーに向かっても人々は空き瓶を投げ、大きなゴミ箱でパトカーのフロントガラスを破り、さらにはそうした物音を聞いた周辺の多くの群衆達もが次々に集いだし大きな暴動になっていきました。45分ほどで鎮圧されたと言われる暴動が治った後はサイクロンが来た後のようだったと言われています。」

 その後何度も映画化含め劇化もされ今に伝えられている、(最近では2015年にローランド・エメリッヒが監督を手がけ映画化)、ストーンウォールの反乱(The Stonewall Riot)と呼ばれる、ゲイ開放運動のきっかけはそんな夜に、起こりました(群衆の数は警察発表で400人、一説には2,000人を超えたと言われています)。そしてその後、ゲイ・コミュニティから正式にゲイ開放の幕開きの宣言がなされ「権力による同性愛者らの迫害に立ち向かう抵抗運動」をもストーンウォールの反乱と呼ぶようになります。

 2016年6月24日に、オバマ大統領はLGBT権利運動の発祥となったこの“Stonewall In”とその周辺をナショナル・モニュメント(国定史跡)に認定しました。LGBT関連の建造物が初めて国定史跡に指定された、それほど歴史的な大きな大きな事件でした。。

 それ以降、ニューヨークのゲイ社会は爆発的に拡大していきます。GAAというゲイ活動家同盟も出来、彼らの手によってソーホーの古い消防署を改造した“Fire House”というヴェニューで毎週末フリーラブとドラッグと、そして誇りを手に入れたパーティを行って行くようになります。

 そうしたパーティはやがてはニューヨークの街中に広がり、小箱ながら“Stage 45”、“Moscow”、“Charade”という週末にはゲイの男性達が集うディスコが増えて行き、次第にニューヨークの週末は集団的意識の高いゲイの男性達主導でディスコがマイノリティ達のコミュニティの場として盛り上がっていきました。アフリカ系アメリカ人でかつゲイの男性という、2重のマイノリティを背負った人々が、そうやってディスコを背景に法も慣習も覆す、新しい時代を切り開いて行ったのです。

 そんな激動の1960年代後半。花開いていったサイケデリック・カルチャーを支えていたヴェニュー“Electric Circus”や“Fillmore East”等にも関わり、後にソーホーの自宅で会員制(基本は招待リストに載っている人のみ入場できるという紹介を含めた招待制)のダンス・パーティを開きニューヨーク中の話題となって行く男がいました。

 その男の名はデヴィッド・マンキューソ(本人は自分をDJとは呼ばないそうですが)。彼のパーティは・・・

 「身内のみが集まるホームパーティ的でありながら、その音響設備は独自の改良も施された全くの妥協無いこだわりの高音質を提供し、ジャンルにもとらわれず、かつストーリー制のある選曲(曲を繋いだりもせず最後までプレイ)、そしてなによりもあらゆる人種、性的マイノリティを歓迎したそのパーティ“The Loft”のロフト・スタイルと呼ばれた独特のスタイルは、「ダンス・ミュージックを楽しむという目的の為あみ出した最良の答」であり、今日においてもパーティーの在り方を語る時には必ず引き合いに出されるスタイルとなっているほど影響力を持ち続けています。そうした“The Loft”の盛り上がりは、ディスコとディスコDJの哲学的とも言える意味付けや、マイノリティの開放に貢献していた事は言うまでもありません。そう、デヴィッド・マンキューソこそディスコを定義づけた男、と呼べると思います。」

 ストーンウォールの反乱を機に盛り上がりをみせたゲイ開放運動により一気に増加したニューヨークのゲイ・ディスコ。 “Sandpiper”、“Ice Palace”や“Sanctuary”等の人気ゲイ・ディスコではDJ達もスキルを一気に高め出し、プレイ内容にも大きな進化が起きて来ます。そんなDJのひとり、フランシス・グラッソは

「2枚のレコードの回転数を調整する事でそれぞれのテンポを合わせ、あたかも同じ曲が流れ続けているかの用に繋ぎ出し、後にDJをアートの域に高めたと評されるプレイを始めます。」

また「誰にも知られていない曲や知らないヴァージョンを探しだし提供する」という今日のクラブDJの基本ともなるひな形が産まれて行ったのもこの頃でした。1969年、人類は月に降り立ち、若者はウッドストック・フェスティバルなどのロックの祭典に酔いしれた年。同時に都市におけるディスコの意味合いや今日に続くDJの手法が確立され始めた年でもありました。

 そして時代は1970年代へ。まず一体1970年というのはどんな時代だったかと言うと・・・イギリスではビートルズが解散、日本では大阪で万国博覧会が開かれ、初の歩行者天国が生まれ、黒ネコのタンゴがヒットし、アニメではあしたのジョーが人気に、そしてよど号ハイジャック事件が起きた、「男は黙ってサッポロビール」の年。アメリカでは事故を起こしたアポロ13号が無事帰還し、ニクソン大統領がヴェトナム和平への5項目を提案・・・そんな年でした。

 僕の中の大きな音楽的な出来事が、ギャンブル&ハフがCBSコロンビア傘下に「Philadelphia International Records(P.I.R.)」を設立した年という事です。後の「Salsoul Records」を始めとするやディスコ・ミュージックに繋がって行く、それまでのモータウン・レコードや「Hi Records」等のサザン・ソウルというソウル ・ミュージックは違った、新たに世界を巻き込み震撼されていくダンス・ミュージックが生まれて行く快進撃のきっかけとなるレーベルの誕生です。

 ‘70年代に入るとニューヨークには次々に巨大なディスコがオープンしていきます。 “Sanctuary”もそのひとつで、あっという間に人気の大箱ゲイ・ディスコとなりました。同様にDJも今日にも繋がるミックス技に磨きをかけた人気DJ、マイケル・カペラなど様々な匠が登場していきます。

 「またディスコ・カルチャーの重要な要素の一つでもある、ボールルーム(舞踏会)というカルチャーもどんどん大規模なものになっていきます。社会の端に追いやられて来た、トランスジェンダーのコミュニティに根ざしたミスコン、ファッションショー、ダンス大会などを含むイベントの総称である「ドラッグ・ボール/女装舞踏会」と呼ばれた派手なパーティが人気となっていき、サンバや阿波踊りのようにそれぞれが「ハウス」と呼ばれる個別のグループを作り「ドラッグ・ボール」用のド派手な衣装を作っていました。後にマドンナのヒットで世界的に有名になる“Vigue”もボールルーム・カルチャーの代表的なダンス、ヴォーギングから来ています。そしてその「ハウス」でドラッグ・クイーン用のドレス「ダッチェス」を制作していた15歳のラリー・レヴァンと14歳のフランキー・ナックルズも出会ったのです。」

 後のガラージ・サウンドの創始者と、シカゴ・ハウスの生みの親もそんなニューヨークのディスコ・カルチャーのど真ん中で育っていきます。そんな彼らにも影響を与えたのも前述のパーティ“The Loft”。実はニューヨークの小箱系クラブに特徴的な事柄のひとつに酒類の販売が無いと言う事がありました。ニューヨークを訪れた経験のある方はお酒を持ち込んで構わないレストランがある事に驚いた経験があるかと思いますが、ニューヨークでは酒類取締委員会が厳しい規制を強いていて、免許の取得が非常に難しく、結果酒類の取り扱い無しでレストランを開く事も珍しくありませんでした。

 しかし、それはディスコでのドラッグの蔓延に直結する事にもなって行きました。次第に人々はディスコの中で、お酒の代わりにポッパーズ、エンジェルダスト、MDA、スピード、そしてコークという様々なドラッグに手を染め出していきます。

 「巨大ディスコでの爆発的な巨大パーティが人気となりながらも、全く真逆な“The Loft”のような会員制パーティも人気は落ちるどころか、次々に“The Loft”スタイルのクラブもオープンし、人々はその場にさえ居れば、人種も性的マイノリティや階級や貧困からも開放され、全てが共通共同の仲間だと言う意識を持てる場所に熱狂していきます。それはやがてドラッグとセックスという快楽にも深く落ちて行く事にもなっていくのですが、それはあたかも激しく抑圧された1960年代の想いから逃げ出す為に必要な熱狂だったようにも思えます。」

 さて、様々な意味で怒濤の’70年代初頭。後にニューヨークで黄金のディスコ時代を築いていく事となる重要人物達も次々に“The Loft”に出入りし、多くの仲間と繋がりを持ち始めて行きます。

 「着飾った黒人達やラティーノ、アジア系と白人達が隔たりも無く入り乱れ、自分を開放し集っている様子に感化され、こんなパーティをもっと大規模で行ないたいという野望を持つ男達が現れていきます。ニューヨークイチ大きくて新しくて、見た事の無い人種等の区別が無い前代未聞の、そんな大型ディスコを夢見たのはマイケル・ブロディとメル・シュレインという男達。後に“Paradise Garage”をオープンさせる男と「West End Records」を立ち上げる(当時は)カップルでした。」

1971年には、後に日本含め世界各国で放映された人気TV番組「ソウル・トレイン」の全米での放送がスタートします。シカゴのソウル系ラジオ番組でDJを務めていたドン・コーネリアスがMCを務め、アフリカ系アメリカ人のアーティスト達がこれでもかと出演する番組で、僕も沢山のアーティストのライブを(基本口パクでしたが)初めて見ることができ毎回毎回興奮していました。ライブと並んでウリだったのがソウル・トレイン・ダンサーズと呼ばれた素人ダンサー達のダンスと髪型を含めた個性的なファッションでした。その影響でディスコは音楽だけでなく、ダンサー達のダンス(ペア・ダンスのコーナーも大人気になりました)や個性的なヘアー・スタイル含めたファッションも人気となっていき、次第にそうしたディスコ・ファッションが流行の先端となっていき、後のヒップホップへとも繋がるマルチ・カルチャーともなって行きました。

To Be Continued