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Part5 〜僕らに今、Discoが必要な理由〜
ニューヨーク・ディスコとディスコ・ミュージックの歴史3

 さて、歴史にもどってみたび1974年の話から。1974年の最後にもうひとつダンス・ミュージック界にとって大事な発明が生まれました。それはひとつの偶然からでした。

 トム・モウルトンがとあるアーティストのリミックスを作っていたスタジオでのお話。ちょうど週末だったのでトムは出来上がったミックスを早速レフ・ディスク (一度限りの録音が可能なアセテート盤に録音されたプロモーション用のディスク)に録音し、DJに配ろうと考えていました。ところがタイミング悪くスタジオにはいつものレフ・ディスク用のアセテート盤の在庫が無くなってしまっていたのです。幸い12インチ(いわゆる30cmのLPサイズ)のアセテートは 残っていたので、少々高価なレフ・ディスクにはなってしまうと思いながらも、思いつきでその12インチ幅に曲がちょうど収まるように溝を広げて録音してみてくれとエンジニアに頼みました。普段以上に大きく太い溝を掘り録音したその結果、なんとトムもエンジニアもびっくりするほど、聞いた事の 無いクリーンで音圧のあるディスコでプレイするのにも最適な音になっていたのです。

 その偶然の発明はあっという間に現実の製品として考えられて いきました。それまでシングルは7インチ(ドーナツ盤ってやつです)のものしかなく収録時間には確実な制限がありましたので、12インチを使えるという事 はリミキサー達のクリエイティビリティをより一層高める事になっていく事になりました。そう、10分でも15分でも尺を気にする事無く、しかもよりフロア向きのエッジの効いた音でリミックスが作れるのです。

 世界で最初の12インチ・シングルは、セプターからリリースされたジェシー・グリーンの “Nice & Slow” とスウィート・ミュージックの “I Get Lifted” のカップリング盤と言われています。最初はもちろんDJやラジオ用のプロモーション用として12インチ・シングルが作られました。そんなものを一般の人々が欲しがるはずは無いとレコード会社の人間は誰もが考えたのです。それでもやがてディスコ熱が各地に広く深く広がって行くと、多くの人々は夕べディスコで 流れていたあのサイズの曲を家でも聞きたいと思うようになっていたのです。

 そして遂に、世界で初めての12インチ・シングルが市販される日がやってきました。世界で最初に一般に向け市販された12インチ・シングルは1976年、先日紹介したサルソウル・レコードから発売されたダブル・イクスポージャーの “Ten Percent” だといわれています(“Ten Percent”のリリースが5月15日、同年にヒットしたタヴァレスの “Heaven Must Be Missing An Angel” が早かった説もあるのですが、こちらのリリース日時が確認できませんでした)。元々オリジナルは3分の曲だったものを10分のロング・ヴァージョンにまで引き延ばした、そのリミックスを手掛けたのはDJのウォルター・ギボンズ。“Galaxy 21”でレジデントDJを務めていた男でした。

 いよいよ時は1975年。

 1975年のアメリカと言えば、なんといってもヴェトナム戦争が終結した年。そしてアメリカの宇宙船アポロ18号とソ連の宇宙船ソユーズ19号が地球を周回する軌道 上でドッキングに成功した年、実はマイクロソフト社もこの年に設立されています。日本では沖縄海洋博覧会や、3億円事件が時効になり、リーゼントの皮ジャンがトレード・マークのロック・バンド、キャロルが解散・・・。

 ニューヨークのディスコ的にはハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの “Bad Luck” が全米ディスコ・チャートの1位に11週連続で輝き、シルバー・コンベンション “Fly,Robin,Fly” や、いよいよドナ・サマーの “Love To Love You Baby” が君臨した年でした。

 その頃ニューヨークのDJ達の間では一部の人気DJは各レコード会社から沢山のプロモーション盤がもらえ、そうでないDJ達はまったくもらえない程格差が広がってし まった現状に意義を唱え、無料かつ公平にレコード会社はDJ達にプロモーション盤を配布せよと言うストライキが起きました。

 「デヴィッド・マンキューソは DJ達が集まったミーティングで「レコード・プール」というアイディアを出します。まずニューヨークのDJ達が団結しひとつの団体を作り、メンバー達を正規のDJ として認定、レコード会社にはそのプロのDJ達が集まった団体として交渉していくというアイディアでした。そして初代会長として選出されたデヴィッド・マンキューソの元、150人のDJ会員達は25社ものレコード会社の人間を集め「レコード・プール」発足の発表と、さらにはその運営に協力する約束をあっという間に取り付けたのでした。」

 DJ達が自らの発案で立ち上げた機関で、レコード会社からその資金までも取り立て、自分達の必要な道具であるレコードを得るシステムを作り上げたのです(もちろんレコード会社のプロモーションにとってもより活用しやすいシステムでしたが)。ディスコ・ミュージックの台頭と共に、DJ達もがあっというまに音楽産業のイニシアティブをとっていった事実が見えて来ます。1975年の夏に出たヴィレッジ・ボイス誌に「今やディスコ界を牽引しているのは、レコード会社が作ったスター達でなくその場でプレイしているDJ達に他ならない。」という記事までが載りました。

 「その後、あっという間にニューヨークのDJ達183名が「レコード・プール」の会員となり、ディスコDJ達がレコードのセールス自体に大きな影響を与える立場になって行っている事に異論を挟むレコード会社は無くなっていました。実はやがて(それぞれがプライド高い個人事業のDJ達ですので)様々な事情もあって、あまりにも大きくなり過ぎた「レコード・プール」は上手く機能しなくなっていくのでしたが、それでもこうした団結力で直に行動に出た事実は印象的な出来事でした。そして丁度その頃からディスコは新たな方向へ向かい始めていきます。」

 ドナ・サマーの “Love To Love You Baby” もその代表的な例でもありました。時を同じくし、“Bad Luck” やオージェイズ “I Love Music” の ヒットに酔っていた「P.I.R.」でも前述の事件が起きていました。ディスコの大ヒットを矢継ぎに産む、フィラデルフィアの力を借りヒットを生み出そうと全米から沢山の大物アーティスト達がやってきました。当然そうした「フィリー詣で」と呼ばれた他レーベルの仕事は「P.I.R.」で働いていたプロデューサーやミュージシャン達の時間を「P.I.R.」の制作以外に多く割く事になっていきました。同時に多くの外部からの刺激やさらには誘惑も受ける事となります。前述したニューヨークでカイル3兄弟によって設立された「Salsoul Records」に「P.I.R.」はM.F.S.B.の多くのミュージシャン達を奪われて行ったのです。人々は新しい波、ディスコ・ミュージックへと乗り出そうと一斉に動き始めていたのです。

 お話をまたニューヨークのディスコ自体に戻します。

 デヴィッド・マンキューソが初期の“The Loft”を閉めた後のニューヨークのお話。ニッキー・シアーノが始めた“The Gallery”や同じく“The Loft”の影響を受けた、まだ新人DJだったラリー・レヴァンもプレイしていた“Soho Place”等がアンダーグラウンドでは人気のヴェニューでした。

 1973年の夏前には西45丁目に“Hollywood”という大型ディスコがオープン。巨大なサウンド・システムを導入し、ゲイだけでなくストレートも集う週末のパーティはディスコとその音楽をメジャー・ヒットさせていく原動力になりました。同年タイムズ・スクエアと6番街のど真ん中にオープンした“Le Jardin”はゲイ層を中心としながらも、ダイアナ・ロスを始めとする業界の著名人達や高所得でファッショナブル、トレンド・リーダー的客層にターゲットを絞り、セレブレティ・ディスコの草分けとなりました。

 そして1974年にはマイケル・ブロディが“Read Street”をオープン、ラリー・レヴァンがDJを努めます。その年の暮れには“Ice Palace”を閉めたフェスコが“Flamingo”という2,500人収容の大型ディスコをオープン。話題となると共にそこでも週末でも白人客が中心だったという新しい流れも起きていました。

 アフリカ系アメリカ人のゲイ達が中心となって築いて来たディスコの文化が少しずつ、確実に広がりを見せていったのです。そしてディスコ・ミュージック自体にも新しい波が押し寄せます。それまで、ディスコ・ミュージックにはスターは要らず、制作者=プロデューサー・ミュージックという側面が大きいものでした。さらに言うと、そうした音楽をヒットさせていくのは現場のDJ達、そしてなによりもディスコ・ミュージックにおけるスターはフロアで踊り続けるダンサー=お客達でし た。

 新たな波は新たなスターを運んで来ました。しかもそれは海外から。グロリア・ゲイナーが1975年に全米ディスコ連盟によって認定された初代「クイーン・オブ・ディスコ」に選ばれた事は書きましたが、今度はそれを遥かに越えるスター誕生のお話。

 まずアメリカ国内でのお話。MGMやブッダ・レコードでキャリアを積んだプロモーター、ニール・ボガートはその頃ロサンゼルスに新しく自分のレーベルを立ち上げていました。その名は「Casablanca Records」。最初のアーティストは実はキッスというロック・バンドでした。その事からも分かるように、レーベルを始めた頃にはまったくディスコには興味が無かったボガードの考えが、海外から送られて来たひとつの曲で変わります。

 その曲を手掛けたのは、イタリア育ちで後に建築を学びにミュンヘンに出向き、そこで音楽の道に切り替えバンドでベースを弾きながらも夜な夜なディスコを渡り歩き、出会ったピート・ペトッテとコンビを組んでドイツ国内でヒットを産みだしてきた、本人もアーティストであったプロデューサー、ジョルジオ・モロダー。歌っていたのはマサチュー セッツ出身ながらミュージカル「ヘアー」のヨーロッパ公演でデビューし、キャリアもドイツでスタート。その後オーストリアの俳優、ヘルムート・サマーと結婚しミュンヘンでバッキング・ヴォーカルの仕事をしていたドナ・サマーという女性でした。

 「モロダーは当初、60年代にヒットしたジェーン・バーキン&セルジュ・ゲンズブールの “JeT’aime Moi Non Plus” をヒントに思いついたと言う、70’sセクシー・ディスコのアイディアを持ちかけ興味を持ったドナと、ジェーンばりの喘ぎをたっぷり入れ作った曲が “Love To Love You, Baby”でした。さらに異常なほどバスドラム=キックを大きなバランスでミキシングし仕上げたその曲を聞き、ボガートは速攻アメリカでのライセンスを持ちかけたのです。」

 実は当初発売されたシングル “Love To Love You, Baby” はまったく期待はずれのセールスでした。ところがディスコでプレイしたDJからのリアル・タイムのフィードバックがボガードの頭にひとつのアイディアを光らせます。ボガードは電話でモロダーにこう指示したそうです。「 “Love To Love You, Baby” を20分に引き延ばしてすぐ送れ!」(その電話はミュンヘンでは真夜中の事だったと来日の際にインタビューをさせて頂いたモロダーは苦笑していました)。

 4分しかなかったそのセクシーなディスコ・ソングは17分間続くオルガニズム・シンフォニーと変身し、果てしなく続くセックスのようにダンス・フロアを熱狂の渦に落とし込むアンセムとなったのです。1975年の9月には “Love To Love You, Baby” は全米のディスコ中でプレイされまくり、ラジオで流れる事も無く、瞬く間に10万枚を売り上げるヒットになっていました。“Love To Love You, Baby” はダンス・ミュージックをスタジオ主体の音楽にも変えていき、不世出の世界的大スター、ドナ・サマーを、そして後に3度のアカデミー賞も受賞、今日に至るまで活躍する名プロデューサー、ジョルジオ・モロダーを世界に知らしめしたのです。

 「1973年にタイムズ・スクエアと6番街のど真ん中にオープンした“Le Jardin”は、 1975年にはニューヨークのディスコの中心的な存在になっていました。先ほど書いたように多くのゲイ達を顧客としながらも、アンディー・ウォーホール、デビッド・ボウイ、エルトン・ジョンからピエール・カルダン、トルーマン・カポーティ等の著名人が来ていた事でその評判を高めて行き、次第に有名人見たさに遠隔地からも客が押し寄せるようになっていきました。そんな状況を嫌い、次第に常連客は“Le Jardin”から離れて行くようにもなりました。いつの世でも経済的側面とポジショニングを守る事のバランスは難しい話ですが、結果ニューヨークを中心としたディスコの大流行は1975年には国際的な広がりをもみせていきます。」

 そんなディスコに新しい音楽が風を吹かせます。ヴァン・マッコイのシングル “Hustle” のヒットはフロアの人々にコミュニケーション・ダンスやそうしたパートナー・ダンスを流行らせて行きました。やがてパートナー・ダンスの技を競い合うダンス・コンテストまでが産まれ、大きな人気となって行きます。TV番組「ソウル・トレイン」でのダンス・タイムもそんな流行に大きな影響を与えて行きました。ダンス・コンテストは急速に大規模になっていき、マディソン・スクエアー・ガーデンで「世界最大のディスコ・ダンス・パーティ」が開催されるまでになります。アフリカン系アメリカ人やゲイというマイノリティの人々が日々の現実の憂さを晴らす為の自由の場として作って来たディスコは、大規模のロック・フェスティバルのように、莫大な利益を生み出すまでメジャーなものへと変貌していったのです。

 「1976年に入るとニューヨークではもぅ何件ディスコが存在するのか分からないような、さらに言うと一体何をしてディスコと呼ばれるのかさえも分からないようになって行きました。ニューヨーク中のピザ屋やバー&グリルといった店にもターンテーブルがおかれ、街中のレストランではテーブルを少しズラしてフロアまで作られ、市内には 175件を越えるディスコと呼ばれる店ができてしまいました。最早誰もコントロールする事ができず、そして誰もが何が本物のディスコなのかも分からなくなって行きました。」

 「そんな中ひときわ目立ったのは、モーリス・ブラームズがブロードウェイに5万ドルを使ってオープンした“Infinity”。鏡ばりの豪華な内装がウリで、毎週末5,000人の集客を誇り、初期投資をわずか7週間で回収したという伝説も残っています。またウエスト通りのハドソン川の波止場に作られた巨大ディスコ“12 West”もマンハッタンのナイト・ネットワークに欠かせない場所とまで言われ、“Infinity”に比べ、よりカジュワルな客層を掴も行き大成功していきました。」

 その頃デヴィッド・マンキューソは“The Loft”を再開しようと動き出していました。ソーホーの北部に適切な物件を見つけたものの、近隣の住民の反対にあいました。そんな中のひとり、雑誌社のエディター、マイケル・ゴーロドスタインはクラブには行った事すらありませんでしたが、“The Loft”が出来ると近隣はドラッグ天国となり人々が通りにたむろするようにもなり、黒人がうろつき、強盗が現れると反対運動を興しました。マンキューソは“The Loft”の正当性を辛抱強く訴え、ソーホーという地域を新しいアイディアを持つアーティストの地に戻そうと主張し、イブ・サンローランの助力も得、サンローランはメンズウエアの発表の場は“The Loft”にしていくと発表、“The Loft”のアーティスティックな存在意義を主張していきます。また経営内容がアルコールも販売せず、会員制であることからも法的な問題にはいっさい引っかからないという判断も市当局から下されオープンにこぎ着けたのです。そうして再開した“The Loft”は肥大化してしまったディスコ文化に対するアンチテーゼとも言える存在となっていくのでした。

To Be Continued