1972年夏、“The Loft”は一旦その幕を降ろします。
「好調だった“The Loft”をデヴィッド・マンキューソはクローズします。行き場を失った “The Loft”ファン達の受け皿となったのは、 “The Loft”で多くの事を学び尽くしたDJ、ニッキー・シアーノが始めたヴェニュー“The Gallery”でした(その時の年齢はなんと17歳)。まだ法的にはディスコに出入り出来ない年齢で既に彼はディスコの創業者兼スターDJに上り詰めたのです。」
「The Gallery”でその後のニューヨークの歴史に繋がる大きな事件だったもうひとつの出来事。それはニッキーが“The Gallery”のDJにフランキー・ナックルズを誘い、フランキーが仲の良いラリー・レヴァンを誘い、ラリーが室内装飾担当&プロモーターとして雇われた事です。ニッキー・シアーノ、フランキー・ナックルズ、ラリー・レヴァンがニューヨークの同じヴェニューで互いに影響を与えながら働いていたという偶然は後のディスコ史にも大きく左右していく出来事だったと思います。また多くのディスコが誕生し人気を競って行くという事は、同時にDJ達もその内容を競いだし、進化していく事でもありました。」
1972年には“Galaxy 21”や“Better Days”といった伝説のディスコも次々にオープン。“The Gallery”ではウォルター・ギボンズがDJを務め、“Better Days”ではティー・スコットが看板DJに、と言うように後に12″Ver.用のリミックスを大量に制作していく、リミキサーとしても名をあげていく連中が、まずDJとして頭角を現して行く時代でした。
「ニッキー・シアーノは夢で見たという話を後に残していますが、その頃世界で初めてターンテーブルを3台使ったDJプレイを始めています。そのプレイを間近で見て学んでいったラリー・レヴァンとフランキー・ナックルズも“Continental”と言うヴェニューでも共にDJを始めていき、徐々にその名前を広めていきます。」
なんと、まだふたりともまだ10代の話です・・・・・・
ラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズ、ウォルター・ギボンズやティー・スコット達が次々に人気DJとして名を挙げて行く1972年のニューヨーク。ディスコ人気が高まり、必然的にそこでの音響設備の質も量も飛躍的に進歩していき、DJ達のスキルやセンスが格段に上がって行き、DJ達自身が人気となっていった年でした。当初はディスコやそこでプレイされる音楽などには見向きもしなかったメジャー・レコード会社の中にも、ディスコを通じてヒットが産まれる可能性を感じ始めて行く人間が現れます。そのきっかけはまずはDJ側からのアプローチでした。そんな可能性を説いてレコード会社を回り、大箱ディスコでプロモーションしてやるから新譜をくれと言い始めたのも実はニッキー・シアーノだったそうです。
1972年頃のアメリカの音楽状況はというと、エルヴィス・プレスリーが “Burning Love” のヒットで完全復活、ポール・サイモンがS&Gからソロになり初のシングル“Mother and Child Reunion / 母と子の絆”がヒット、ドン・マクリーンの“American Pie”が、ニルソンがカバーした“Without You”が、ギルバート・オサリヴァンの“Alone Again”、ニーノ・ロータの“ゴッドファーザー愛のテーマ”が映画共々大ヒット。ロック界ではシカゴが“Saturday In The Park” を、イーグルスが “Take It Easy”を、イギリスのディープ・パープルが“Highway Star”を、レッド・ツェッペリンが“Black Dog”を・・・・メジャー界ではそんなヒットが生まれていた年でした。新たな風としてイギリスからT・レックスの “Telegram Sam” や “Children of the Revolution”がヒット、当時両性具有とも言われたデビッド・ボウイが“Star Man” をヒットさせ、お化粧バリバリのグラム・ロック旋風が吹き始め出した、そんな頃でした。そうした当時のラインナップを見ても分かるように、ディスコ・ミュージックから全米ヒットが生まれるなんて言う事は、メジャーな音楽業界の多くの人間にとっては夢にも思わない状況でした。
もちろんDJ達がプレイする音楽自体もまだまだディスコ・ミュージックと呼ばれるようなスタイルを確立していず、ジェームズ・ブラウン の“Sex Machine” やアイザック・ヘイズ の映画『黒いジャガー』のサウンド・トラック等、まだまだ’60年代から繋がるソウルやファンク・ミュージックを中心にプレイしていました。それでも1972年から1973年にかけてジワジワと、例えばオージェイズの “Back Stabbers / 裏切者のテーマ” やグラディス・ナイト&ザ・ピップスの “Midnight Train To Georgia / 夜汽車よ ジョージアへ” のようなニューソウルと呼ばれた’60年代とは質感が異なるダンス・ミュージックが生まれ始め、新しい季節を予感させる時代でした。やがて前述したフィラデルフィアのふたりの名プロデューサー、ケニー・ギャンブルとレオン・ハフの手によって立ち上げられた「Philadelphia International Records (以下P.I.R.) 」からリリースされた、オージェイズを始めとするフィリーソウルと呼ばれるアメリカ発の新しいダンス・ミュージックが人気を博して行きます。
元々、ケニー&トニーというデュオで1959年からトム・ベルと一緒にアーティスト活動をしていたケニー・ギャンブル、ニューヨークでフィル・スペクターらにスタジオ・ワークを、ソングライター・コンビのエリー・グリニッチ&ジェフ・バリーに作曲を学んだレオン・ハフは、1966年に一緒にエクセル・レーベルを立ち上げイントゥルーダーズの “Cowboys To Girls” 等のヒットを生み、業界でのキャリアを築いて来ていました。そんなギャンブル&ハフの2人が1971年にメジャーの「Columbia Records」と新しいレーベル、「P.I.R.」の配給契約を結ぶ事からフィリーソウルの怒濤の歴史が始まりました。同時期に活動していたトム・ベルも作曲家兼アレンジャーとして「P.I.R.」に招き入れ、 それから1年あまりでオージェイズの “Back Stabbers / 裏切者のテーマ”、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツの “If You Don’t Know Me By Now / 二人の絆” 、ビリー・ポールの “Me and Mrs. Jones / ミー&ミセス・ジョーンズ” という世界的大ヒットを次々と輩出、 後のディスコ・ミュージックに大きな影響を与えるフィリーソウルの時代を築く事になっていくのでした。
そんな中、ラリー・レヴァンやフランキー・ナックルズの友人でもあった、ニューヨークのWBLSのラジオDJ、フランキー・クロッカーが当時ディスコ・ヒットしていたマヌ・ディバンゴの “Soul Makossa” という曲をディスコで気に入り、自身のラジオでもかけ続けた所、ディスコとラジオ相互からの盛り上がりにより、ひと月で3万枚ものフランス盤が輸入されるというヒット(その後アメリカ盤も作られさらなるヒットに)を生み出すという、業界内をも驚かす事件も起きました。全く宣伝費をかけず、プロモーションとしてのツアーやライブをする事さえ無く、ディスコで流れ続ける事からヒットが産まれるという事実が生まれたのです。そんな気運が徐々に高まっていくに連れ、ディスコ自体も、取り巻く環境も一気に変化して行く時代を向かえます。
カメルーン出身の、元々はフランスの小さなワールドミュージック系のレーベルでリリースされていた、アメリカではまったく無名のサックス奏者、マヌ・ディバンゴの “Soul Makossa”(後に沢山のアーティストにカバーされ、多くのヴァージョンがヒットしました) のディスコ~ラジオ・ヒットという事件により、ようやくレコード会社のA&R達がディスコを新たなプロモーションの場として考えだすようになります。1973年にはそんなレコード会社の人間に、さらに新たに発想の転換を余儀なくさせる、現場からのアイディアがセプター・レコードのA&R、メル・シュレイン(後にWest End Recordsを起こす男です)によって商品となりました。ウルトラ・ハイ・フリークエンシーの “We Are On the Right Track” というダンス・ナンバーをリリースする際にB面に収録する曲が無く困っていた所、メルが渋る会社を強く説得し、シングルとしては極めて異例な、B面はA面のインストVer.を収録した作品をリリースしたのです。
これは他のメーカー・ディレクターとは違い、ディスコの現場に精通していたメルが、複数のターンテーブルと複数の同じレコードを行き来することによって、曲のサイズを自由に変更させながらプレイしているDJ達が、もしプレイしたい曲のインストVer.があったらオリジナルとインストの2枚を使い、歌の途中でいきなりインストになったり、ここぞという場所で歌入りのサビを登場させたりなど、自由自在に曲のサイズを変更しながらプレイできるのにと悩んでいた状況を知ってから、ずっと実現したかったアイディアでした。最後まで渋っていた上司達を尻目に、“We Are On the Right Track” のインストがカップリングという仕様のシングルにDJ達は大興奮、結果競ってプレイ(もちろん2枚3枚使いでして)、曲もヒットという結果になりました。そのヒットは、その年に終わりには各レコード会社が慌ててダンス・ミュージックのシングルのB面にはインストVer.を収録する事になる程、業界内の大事件になったのです。
1973年には音楽ジャーナリストのヴィンス・アテッティ/Vince Alettiがローリング・ストーン誌におそらくディスコに関する初めての記事(『Discotheque Rock ‘’72: Paaaaarty!』)を執筆するほど、ディスコは注目を集め始めていました。それでも記事の中で彼はそのシーンを「深夜営業のクラブや会員制のプライベート・ロフト」で催されるアンダーグラウンド・パーティーと説明し、客は主に「黒人あるいはラテン系でゲイの、ハードコアなダンスファン」と紹介していました。まだまだそうしたアンダーグラウンドなイメージが色濃い時代でした。
ディスコからメジャー級のヒットが生まれる、そんな気運が高まって行った1974年。遂にそのムードは現実のものとなって行きました。
「1973年の後半あたりからニッキー・シアーノは自身のDJ哲学でもある「誰も知らない踊れる曲をプレイする」という事から、廃盤状態だったラブ・アンリミテッドの “Love’s Theme” という曲を発見しヘビー・プレイするようになりました。バリー・ホワイト作曲&プロデュースの大編成のストリング・セクションをウリとした17分の大作は、ひとつには長尺なのでDJがトイレに行って来られるという理由もあって人気が出たと言われますが、そんな17分の曲もラジオでヘビー・プレイもされていくようになり、1974年2月に遂には全米チャートの1位まで獲得してしまい、全米中のA&R達を震撼させました。」
レコード会社の人間が思わぬ “Love’s Theme”の大ヒットに唖然としていたその一月後、同様にディスコでヘビー・プレイされ火がついたエディ・ケンドリックスの“Boogie Down”が全米2位のヒットを獲得。さらに4月には「P.I.R.」からオーナーのギャンブル&ハフ、プロデュースによる、フィラデルフィアのシグマ・サウンド・スタジオのセッションで起用されていた一流のスタジオ・ミュージシャン達で結成され、多くのフィリーソウルの伴奏も受け持つ事になる、MFSB (Mother, Father, Sister & Brotherの略) が自らアーティストとなり発表した“TSOP (The SOund Of Philadelphia)”が2週間に渡って1位を獲得! それはアンダーグラウンドだったディスコのパワーが全米を制した瞬間でもありました。権威あるアメリカの音楽誌『ビルボード』がディスコ元年とし、自身のチャートの中に新たにディスコ・チャートを付け加えた年になりました。
さらにその夏にはヒューズ・コーポレーションの “Rock The Boat” が全米1位、その翌週には取って代わるように、ハリー・ウェインK.C.とリチャード・フィンチというまだ駆け出しのプロデューサーの手によるジョージ・マクレー “Rock Your Baby” が1位に輝いて行きます。これまでの音楽とは違った、ファンキーでアップテンポで、かつセクシー。聞くのではなく踊っているとたまらない多福感溢れるそのメッセージは、歌う人間にではなく踊るみんなが主役という、新しいコンセプトが溢れたまさディスコの意味そのものが詰まった音楽でした。後に「ディスコの起源の曲」とも呼ばれるこの2曲の大ヒットにより、時代は一気にディスコ黄金期に向かって走って行くことになります。そしてハリー・ウェインK.C.とリチャード・フィンチは、KC&サンシャイン・バンドを結成し、自らも大ヒットを産んで行くアーティストになって行きました。
1974年には全米チャート首位に上り詰めたディスコ・ミュージックでしたが、その頃の他のヒット・ソングというと、カーペンターズの“Jambalaya”や“Please Mr.Postman”、エルトン・ジョン “Bennie and the Jets”、グランド・ファンク・レイルロードの“The Loco-Motion”、ポール・マッカートニーとウイングス“Band on the Run”、ジム・クローチ “Time In A Bottle”、映画もヒットしたバーバラ・ストライサンド“The Way We Were / 追憶のテーマ”等でした。そうした曲を押しのけてトップに立ったディスコ・ミュージックが、どれほど他の曲と性質が違っていたのかも良く分かるかと思いますが、ディスコはメジャーな音楽界にとってもとてつもなく大きな改革をもたらしました。
そんな年にヒットしたのが、後にクリスティーナ・アギレラ、リル・キム、ピンク、マイア等によるカバーもヒットした、ラベルの “Lady Marmalade”。この曲は全米だけでなく全英でのシングルチャート1位も獲得します。ニューオリンズの巨匠、アラン・トゥーサンのアレンジ/プロデュースで、ミーターズ始め周辺のミュージシャンも参加のニューオリンズ・ファンク・チームがディスコ創世記に生んだ傑作として名を残します。また伝説的な人気ギタリスト、エリック・クラプトンが「461オーシャン・ブールバード」というアルバムをリリースし、そこから“I Shot the Sheriff”というジャマイカのボブ・マーレーのレゲエ・スタイルのカバー曲をシングル・ヒットさせ、さらにディスコでもヒットして行った事も印象的な出来事でした。
その頃、ディスコに持ち込むMixを作る為、新譜のレコードを求め他のDJ達同様、毎日のようにレコード会社を回っていた男がいました。
「実際にモデルもやっていたほどハンサムで、ダンス・ミュージックに詳しいその男は、DJ達とは違って自宅で仕上げたMixをテープでディスコに持ち込み、現場でフロアの反応を楽しんでいたという少し変わったタイプの男でした。彼は自宅で構成自体も踊りやすいよう編集していき、踊っていた客さえも驚く個性的なMixを作り評判となっていきました。持ち込まれたMixにフロアの反応が素晴らしかった為“Sandpiper”のオーナーはトムに新たなMixテープを発注し、1本につき500ドルで契約を交わしました。世界初のオリジナルのMixテープを販売した男にもなりました。やがて彼は『ビルボード』誌のビル・ワードロウがニューヨークにディスコの取材に来た際に案内役となり、その詳しさと人柄をビルに気に入られ、『ビルボード』初のディスコ・コラムの執筆をしていくこととなり、ディスコの案内人としても有名になっていきます。」
その男の名はトム・モウルトン!後にディミトリ・フロム・パリスに「エクステンディッド・リミックス(リミックスのロング・バージョン)というアートを創った張本人」とまで言わしめる、世界で最初に12インチというフォーマットを使いディスコ用により長く踊れる、編集された言わば業務用の「エクステンディッド・リミックス」を生み出していく男です。
そんな1974年の夏。以前から“The Loft”のような人種混合のパーティをより大きな規模でやってみたいと思っていた男、マイケル・ブロディがトライベッカ地区に新しいディスコ、“Read Street”をオープンします。スムーズとはいかなかった出だしでしたが、マイケルは“Soho Place”というディスコでDJをしていた新人DJと出会い、即座に“Read Street”に誘います。即座に鞍替えとはいきませんでしたが、やがて“Soho Place”はその新人DJの人気で客が多過ぎた事も原因しクローズし、マイケルは速攻そのDJを入れ招き入れ、やがて彼は“Read Street”の、ニューヨークの看板DJとなっていきます。
“Continental”でスキルを磨き、その頃にはすっかりオリジナリティ溢れるDJとなっていたその人気の新人DJこそが、ラリー・レヴァンでした。
ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ、MFSB、ヒューズ・コーポレーション、ジョージ・マクレー等が初めてとなるディスコ・シングルの全米1位を獲得した、ディスコ元年と呼びたくなる1974年。その年にはさらに沢山の事が始まりました。まず前述したビルボード誌にトム・モウルトンのよる初のディスコ・ヒット・チャートがスタート。さらに大きな事件が、ジョー、ケン、スタンリーのカイル3兄弟がニューヨーク発のレーベル、「Salsoul Records」を設立した事です。もともと70年代初頭からメキシコ~中南米の音楽をアメリカで発売させようとレコード産業に身を投じた兄弟達でしたが、声をかけ続けたメジャー・レコードからは相手にされず、それならばと自身達でレーベルを始める事を思い立ちます。きっかけともなったジョー・バターンのアルバム、その名も「サルソウル」のサルサ+ソウルというサウンド・コンセプトに着目し、そうしたサウンドをクリエイトし、かつ自分達の手でリリースするレーベル、「Salsoul Records」を立ち上げたのです。兄弟のひとり、ケネスは当時先んじて新しいソウル・ミュージック、ディスコをクリエイトし人気をはくしていたフィアデルフィアに出向き、好きだったアーティストのほぼ全ての演奏が、同じ面子で行われている事を知ります。その演奏家達、フィアデルフィアではMFSBとも呼ばれたシグマ・サウンド・スタジオを活躍の拠点とする「P.I.R.」のハウス・バンドとも呼べるスタジオ・ミュージシャン達に目を付け、彼らと直接契約を結びアーティストとして発信していけば、成功するのではないかと考え彼らにサルソウル・オーケストラという名前で活動するアイディアを話したのです。
「ちょうどその頃、「P.I.R.」のプロデューサーであるギャンブル&ハフと折り合いが悪くなっていたメンバーもいて(諸説ありますが、イスラム教徒でなにより曲のメッセージを重用視するケニー・ギャンブルに対し音を重視したいミュージシャン達が反旗を翻したとも言われています)、結果ロニー・ベイカー (Bass)、ノーマン・ハリス (Gtr)、アール・ヤング (Dr)、ロン・カーシー (Kbd) 、ラリー・ワシントン (Per) を始めとするMFSBの中核メンバー達は、ヴィンセント・モンタナ・Jr. (Vib) が指揮を執るサルソウル・オーケストラに移籍してしまったのです。」
そうしたメンバーに依るサルソウル・オーケストラは最初の曲 “Salsoul Hustle”の録音を行いました。さらに並行して新人女性ヴォーカリスト、キャロル・ウイリアムス、そしてシカゴのジャズ・ギタリスト、フロイド・スミスという3組のアーティストの制作を行いました。
1975年にサルソウル・オーケストラの “Salsoul Hustle” をリリースするや否やラジオDJ達はこぞってかけまくり、結果7インチは10万枚のヒットに、彼らは慌ててアルバムの制作に着手します。企画段階では大手メジャー・レコードからまったく相手にされなかったレーベル「Salsoul Records」はこうして破竹のスタートを切ったのです。
本当に1974年から1975年にかけてのディスコ界は書き上げる事件が多く物語が進みません。それも皆大事な事ばかり。1974年から1975年にかけて発明されたひとつの事件に付いてさらに書いてみます。
先ほど紹介した美男子、トム・モウルトン。現場でDJこそやらなかったものの「ビルボード」誌に人気のディスコ・コラムを持ち影響力を大きくしていた彼は、MixのテクニックでもDJ達に大きな影響を与えるテクニックを発見します。異なるふたつの曲同士のテンポを合わせ、どこから次の曲が始まったか分からないように聞かせる、当時はスリップ・キューイングと呼ばれましたテクニックです。
自宅の録音機材を使って曲そのものの構成をダンス用に変えていた事は前に書きましたが、彼はもっと大元の、マルチ・テープとよばれる各チャンネルにドラム、ベース、ギターや歌がセパレートされ録音されているテープ素材を、まったく新たにミックスし直す事ができれば、例えばここは歌は無しで、ここはベースが無しとうように、オリジナルとはまったく異なる、純粋にダンス用のヴァージョンが作れるのではないかと考え始めました。
「最初は、後に「West End Records」を興すメル・シュレインが、ドン・ダウニングの “Dreamworld” という曲のマルチ・テープをトムに渡し、ダンス用に作り替えてくれとオファーした事からでした。曲全体の質感自体もトムのMixですっかりキレの良いディスコ・ナンバーらしく生まれ変わったのはもちろんの事、トムは3分だったオリジナルを編集し倍近くにも引き伸ばし、かつ素晴らしかった事に途中で転調してしまうその曲の転調部分では、音程のある楽器や歌を全てミュートし(音は出ないようにして)ドラムとパーカッションだけにして、そこからもう一度オリジナルのキーに戻すと言う全く新しいアイディアを披露しました。そう、全ての楽器が止まりリズムだけが鳴り続くと言う、今で言うブレイク・パート、ディスコ・ブレイクが産まれたのです。」
「作業の上では転調している部分を避ける為に無理矢理行われた作業でしたが、そうしたパート=ディスコ・ブレイクは増々フロアの客のテンションを高め熱狂を生み、またDJ達はディスコ・ブレイクの部分は音程のある楽器が無いことから、それぞれのテンポを合わせる事で容易に異なる2曲を気持ちよく繋ぐ事が出来ると言う、実に大きな発明だったのです。」
次々にディスコ・ブレイクの入るリミックスVer.が作られ、トムは大人気のリミキサーとなっていきます。反面オリジナルとは全く印象の異なるリミックスに、「俺の音楽を台無しにした。」と怒りだすプロデューサーやアーティストも少なくありませんでしたが、そうしたヴァージョンがディスコで大人気となり、やがてはヒットしていく事実を知ると何も言えなくなっていきました。
1974年の暮れにトムは、グロリア・ゲイナーのデビュー・アルバムを手掛けていたプロデューサー達と出会います。3曲のヒット曲のリミックスの相談をされたトムは「その3曲をすべて繋いでしまったらどうでしょうか?」と提案します。「そしたら曲は一体どこで区切ればいいのか?」と聞くプロデューサー達にトムはこう答え作業に入ったと言われています。「一体なぜ曲を区切る必要があるのですか?」。
トムが3曲をスリップ・キューイングとディスコ・ブレイクの手法を使ってメドレー形式にした18分間のディスコ・メドレーはフロアに大歓迎され、翌年1975年3月にリリースされたグロリア・ゲイナーのデビュー・アルバムも大ヒット。数ヶ月後にグロリアは全米ディスコ連盟によって認定された「クイーン・オブ・ディスコ」に選ばれ、その座を2年間守りました。もちろん、同時にトムはリミキサーとして更なる名声を手に入れ、どんな曲でも蘇らせる事の出来る「ザ・ドクター」と呼ばれるようになっていきました。
To Be Continued