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Part6 〜僕らに今、Discoが必要な理由〜
ニューヨーク・ディスコとディスコ・ミュージックの歴史4

 

 百花繚乱のディスコ・ブームとなった1976年のニューヨーク。それでもマイノリティ達が始めたアンダーグラウンドのパーティに対する偏見も無くならないままでしたが、そうした開拓者達は次第に乱立するまがい物のディスコの活況によって、影を潜めるようにもなっていきます。

 再開された“The Loft”は建物が以前とは比べようも無い程、広く多きくなっていましたので、サウンドや居住性、そしてなによりも以前の魅力だった家族的なムードを作り直す事に奔走していました。もちろん一切の妥協を許さないデヴィッド・マンキューソは考え得る最高のサウンドの為に無尽蔵に資金や時間を使い、複雑に計算されたデジタル・ディレイを使ってのネットワークまでもを構築し、どこにいてもサウンドの壁に取り囲まれているような空間を作り出します。

 「ターンテーブルもそれまでのフィリップ社製のモノから、トーレンスにテクニクスのダイレクト・ドライブとフィデリティ・リサーチ社のトーンアームを装備した極上のものに変更。究極のマーク・レビンソンのプリアンプと、日本刀の名匠としても有名な菅野義信デザインの(マーク・レビンソンが欧米に紹介し世界のマニアで好評を得ていた)光悦のカートリッジという考えられる最高設備を揃えて行きました。」

 おのずからそこでプレイされる音楽のタイプにも変化が起きて行き、サンディ・ブルという16弦ギターの音楽、日本の琴の音楽などがラビィ・シャンカールやヴィバルディに混ざってプレイされて行きました。音楽でいうとディスコとは言え無い、まったく新しい空間とそのカルチャーが産まれました。

 「そんな“The Loft”でもマンキューソが良くプレイした一風変わった16分のディスコ・トラックも流行っていきました。1977年に全米でリリースされた当時、アメリカではまったく無名だったフランスのプロデューサー、セローンの “Love in C Minor” でした。ドナ・サマー=モロダー・コンビに次ぐヨーロッパ・ディスコの訪米です。ドナ・サマーのヒットをきっかけにユーロ・ディスコでさらに当てたいと考えていたカサブランカ・レコードの社長、ニール・ボガードが “Love in C Minor” を無断でカバーしてしまい、訴訟を興されそうになるやいなや、逆に“Love in C Minor” の共同作者の(発売当初はクレジットが無くセローンと揉めたようですが)アレック・R・コンスタティノスのプロジェクト、ラヴ&キッスィズとも契約し、ビッグ・ヒットというおまけ付きの荒技で事を収めたというエピソードまである、とにかくイケイケな時代でした。そうして得た予算でボガードはさらにジャック・モラリとアンリ・ペロロのプロジェクトと契約、その新たなグループのプロモーションを大々的に仕掛けます。モロダーやコンスタティノスのサウンドの流れを組み、メンバーそれぞれがゲイのコスプレというファッションに身を包んだそのグループ、ヴィレッジ・ピープルはあっという間に世界的な大成功を収めていきます。」

 そうして1977年の末頃にはディスコにはユーロ的なリズムのアンサンブルである4つ打ちパターンのドラムが不可欠ともなって行きました。実はそのリズムは古くはフィラデルフィアでの、MFSBのドラムスでもある、アール・ヤングが叩いていたドラムスのパターンと全く同じものでした。“Miss You”というディスコ・ブームを意識したシングルをヒットさせたローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツは後にインタビューでその曲で叩いていた4つ打ちパターンのドラムについて聞かれると「あれは’70年代に流行っていたフィリー・スタイルだ。」と答えていました。

 「Scepter Records」でトム・モウルトンの発明を次々に商品にしてきた、クラブ界隈を誰よりも良く知るA&Rメル・シュレイはその前年、遂にディスコ専門のレーベルを自ら立ち上げました。その名は「West End Records」。ニューヨークディスコを語る際に重要なレーベルとなっていくメーカーとなっていきます。

 同じ頃ディスコで最も成功していたレーベルのひとつ、「Salsoul Records」もドナ・サマーに対抗しえるスターを探していました。スター候補は思わぬ身近な所から現れました。サウソウルの最初の契約アーティストのひ とりでもあるフロイド・スミスの妻であり、シカゴ生まれのシンガー、ロリータ・ハロウェイ(日本ではその響きを嫌って当時のメーカーがロレッタと呼びましたが、本来はロリータです。)。

 早速彼女をフラデルフィアに連れて行き、ノーマン・ハリス・プロデュースの元作られたアルバム「Loleatta」は熱狂的に歓迎され、やがてディスコでもアンセムとなっていきました。勢いに乗ってノーマンはその年、ファースト・チョイスもプロデュース。手掛けた作品“Doctor Love” は全米ポップ・チャートのTOP10に入る大ヒット。1977年、最高にヒットした1曲となりました。

 ファースト・チョイス以上のヒットを狙い、ロリータはサルソウル・オーケストラの3枚目のアルバムでコラボレーションを行います。仕上がった曲 “Runaway” は想像以上の大ヒット。直後にウォルター・ギボンズがリミックスしたロリータの “Hit and Run” の12インチもリリースされるやいなや熱狂のディスコ・ヒットとなっていき、ロリータはあっという間にニューヨークのディスコ・ディーバとなっていきました。

 同じく1977年、フロリダのレーベルTKからリリースされた12インチ、ピーター・ブラウンの“Do Ya Wanna Get Funcy with Me” のリミックスは50万枚を越える巨大なヒットとなります。ディスコ・ミュージックは完全に全米のポップス・チャートをも脅かす存在になっていました。

 そんな同年、西54丁目の元々オペラ劇場だった物件を巨大ディスコに作り替えようと言うプロジェクトが進んでいました。

 「ディスコ“Enchanted Garden”で 成功していたスティーブ・ルベルとイアン・シュラガーは、名プロモーターのダレッシオ、ブロードウエイの照明家のマランツやインテリア・デザイナーのダウト、建築家のブロムリー等各界の一流の専門家などを資金提供者として参加してもらうことにも成功し、その巨大ディスコを1977年4月26日にオープンさせます。」

 その名は住所にちなんで“Studio 54”。増々ニューヨークを狂乱のディスコ時代と呼ばれる季節にしていく巨大ディスコが生まれました。

 
 「1977年4月26日にオープンの日を迎えた“Studio 54”。DJ ニッキー・シアーニは「Studio 54はニューヨークのディスコの全ての要素を詰め込んでいた。過去7年間のナイトクラブの最高の場所こそがStudio54。」とまで語っています。ニューヨーク中の期待を一身に集め、オープニングの夜は大混雑だったようで、ビアンカ・ジャガー、ブルック・シールズ、シェールからマーゴ・ヘミングウェイ、ドナルド・トランプ達、ニューヨーク中のセレブリティが押し寄せ、結果1,000人以上の人々が入場する事さえできない状況でした。」

 「実は“Studio 54” はオープニング・ナイトこそ華々しく飾れたものの、その後規模自体の大きさもあって上手く軌道に乗る事ができませんでした。スティーブ・ルベルはある日、店のPRの為に“Studio 54”で ビアンカ・ジャガーのとんでもない誕生会を計画します。当日DJが、お祝いに来ているミック・ジャガーの「悪魔を哀れむ歌」をプレイすると、4,6 メートルの「ビアンカ」と書かれた巨大スクリーンがライトアップされ、今でも写真で見かける、白馬に乗ったビアンカが登場!という絢爛豪華なパーティでした。その様子はマスコミ達の手によって大々的に宣伝され、 “Studio 54”はブレイクしていきます。」

 その反応に気を良くし、スティーブはさらにアルマーニ、サンローラン、ヴァレンティノ、ヴェルサーチ達の為に定期的に、巨大なコブラの口が空き、中からグレイス・ジョーンズが登場しライブを行い、発射砲は止めどなくきらめく紙吹雪をまき散らし続ける、そんな超ド派手なテーマ・パーティを行い続け、集まったセレブやスター達を興奮させていきました。経費を一晩で4万ドル以上もかけていたと言われるそうしたパーティでさらに“Studio 54”のセレブリティな人気は頂点を迎えます。

 その後“Studio 54”はメンバーシップ制を敷き、メンバーシップを持っていないほとんどの人間は“Studio 54”に入る事が出来ませんでした。入り口で大挙して並び、チェックされ入店が許されたのはほんのわずかの人々だけでした。一度“Studio 54”を訪れたマンキューソはみんなが外に立って選ばれるのをずっと待っているような、人間扱いされないその入店システムに怒り、二度と来ないと宣言した程です。

 同年、1977年5月には西52丁目にモーリス・ブラウンとジョン・アディソンがオープンさせたディスコ“New York, New York”はそうした“Studio 54”に入る事のできない客達を相手に大きな人気を博しました。逆に言うとそれほど多くの客が全国各地から“Studio 54”目指してやってきていたのかが伺える話です。

 少し話を戻します。1年ほど前のお話、1976年のニューヨークの事です。“Galaxy 21”の フロアに響き渡るリズムがよりパワフルになります。オーナーのジョージ・フリーマンがニューヨークにやってきた若きフランス人のドラマーを雇い、DJのウオルター・ギボンズに合わせ一晩中生演奏させたのです。センスが良くてリズムが的確で曲をどんどん覚えて行ったそのドラマーも、1977年にディスコ“Experiment 4”でDJを始めます。知り合いの機材を使い気に入ったダンス・トラックを自らリエディットした曲でフロアを熱狂させていくDJ、その名はフランソワ・ケボーキアン。後に「Prelude Records」のA&Rとして、そしてリミキサーやアーティストとして、DJとして大きく時代を引っ張って行くひとりでした。

 さらにマイケル・ブロディが食肉貯蔵庫件ロフトに作ったクラブ“Read Street”が、建物の構造自体に欠陥があり、1年半で閉鎖となったという事件も起こります。そうした経験を元にマイケル はさらなる自分の思い通りの、大きなディスコの計画を進めます。やがてキング通りにあった広く大きな空きガレージを見つけ、資金調達を繰り返しながらも“Read Street”の音響にもさらに手を加えた最強の音響設備を誇る、マイケルのいつかこの場所をパラダイスのような素敵な場所にしたいとの思いから付けられた“Paradise Garage”という名前で1978年の1月にオープンしたのです。

 「実はそのオープンの夜は散々なものでした。吹雪の為ケンタッキーから送られてくる音響機材が到着せず。1,000人を越す客が氷点下のマンハッタンの夜に1時間以上も列を作って開店を待たされたのです。」

 「それでもレジデントDJ ラリー・レヴァンの人気もあり、ニューヨーク一ワイルドなパーティを行う人気のディスコとなっていきます。マンハッタン随一と呼ばれた音響空間と「West End Records」のオーナーのメル・シュレイン、WBLSのラジオDJ、フランキー・クロッカー達とラリーとの有効な関係も後押しし、次第にラリー・レヴァンは他のDJとは一線を画す存在ともなって行きました。」

 マイケルのコンセプトはひとつ。“Paradise Garage”を 白人だけでなくアフリカン・アメリカンやヒスパニック系達にも開かれた初のメインストリームなゲイ・ディスコにする事でした。ダンスフロアは驚く程大きく、そこに集ったのは文句無くニューヨークで最もシリアスなダンサー達でもありました。彼らは新たなリアリティを求め、またお気に入りの相手の気を引く為に、激しく狂おしく夜な夜な踊り続けました。そのフロアの渦の激しさはニューヨークのどんな大型ディスコよりも激しかったと言われます。スタッフ含めそのファミリー的な雰囲気は他の気取り 過ぎたディスコとは真逆で、あっという間に話題となって行きます。

 “Paradise Garage”の客が増えて行くに従い、ラリーはより自信を持って、自身のプレイに磨きをかけて行きます。熱狂的なクラウド達を匠に操り、人々は口々に「ラリーは私の為にレコードをかけてくれる!」とまで言わしめたDJスタイル、プレイ中であってもミラーボールの輝きが足りないと気づいたら自ら脚立に乗り磨き上げた程フロアの隅々までに完璧さを求めた、こだわりとカリスマ性と革新性を伴って数々の伝説を産んで行きます。ラリーは当時トップのゲイ・ ディスコ“Flamingo”がハッピーでエネルギッシュな曲をメインとしていたのに対し、よりヘビィーでダークなブラック・ミュージックを好みました。当時ヒットした白人系のディスコは一切かけず、R&Bディスコを中心に後にカラージと呼ばれる独自のスタイルを作り始めてました。セクシーでダークでファンキーなそんな音楽達は今のクラブ・ミュージックへと続くダンス・ミュージックの礎となって行くのでした。

 1977年、“Paradise Garage”がオープンし、人気を掴みかけていたそんな頃、メル・シュレイが興した新しいダンス・ミュージック・レーベル「West End Records」はひと足先に大ヒットを産み、新たなディスコ・スターをも生み出します。

 「フィラデルフィア出身の、その白人ソンガーは垢抜けないルックスながらも、素晴らしく力強い声を持っていて、一声で会場を熱狂させるポテンシャルを備えていました。名前はカレン・ヤング、そんな彼女が歌った “Hot Shot” はあっという間に全米で80万枚を越える「West End Records」の大ヒットになりました。さらにはそんなディスコ・ブームの中、メルと同じくセプター・レコードにいたマーヴィン・シュラクターも独立し、新たなダンス・ミュージックのレーベルを興します。その名は「Prelude Records」。先ほど紹介したフランソワ・ケボーキアンも「Prelude Records」のA&Rとなり、その後リミキサーともなり、やがて「Prelude Records」のダンス・クラシックスを量産して行く事となります。」

 「Salsoul Records」、「West End Records」と共に70年代のニューヨークを代表するディスコ系レーベル「Prelude Records」の登場で、都会的で洗練されたダンス・クラシックスを数多く世に送り出した三大レーベルがここで揃いました。

 さらにその年に、世界にさらなる大きなレベルでディスコ・ブームを巻き起こすひとつの映画が封切られました。

 その映画の名は「サラディ・ナイト・フィーバー」。

 ジョン・トラボルタ主演の世界を巻き込む異常なディスコ・ブームを興すと共に、ディスコ時代のピークを象徴する映画でもありました。映画でトラボルタの踊った ダンスやそのポーズ、使われたディスコ・ミュージックもが世界的に人気になり、ディスコ文化を取り巻くファッションやカルチャーは世界の若者文化に大きな 影響を与えた。映画のサウンド・トラック「サタデー・ナイト・フィーバー」は全米ヒットチャートのアルバム・ランキングで25週連続ナンバー1を獲得、全米だけでも1,500万枚という驚異的な売上を記録(1984年にマイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」が登場するまで、歴史上最も売れたアルバムとなりました。そんな記録の受け渡しにもディスコの歴史を感じますね)、なかでもそのアルバム中の8曲に関与した既に長いキャリアを持つビージーズは新たにディスコ・スターとして、その人気を不動のものにしました。

 そして1978年。ビージーズの “Night Fever” を始めとする一連のヒットや、シックの “Le Freak” (Studio 54の入り口で門前払いされた腹いせで作った曲)、ア・テイスト・オブ・ハニー “Boogie Oogie Oogie”、ドナ・サマー “McArther Park” など、ディスコ・ソングが矢つぎに全米で大ヒットとなり、完全に新たなヒット・ミュージックとしての立ち位置を確立した年となりました。

 その夏にはWKTUというラジオ局がノンストップでディスコ・ミュージックを流し始めました。結果、WKTUはニューヨーク史上で最高の聴視率を上げるほどの成功を納めてしまいます。そんな流れはあっという間に各地に広がり全米中で最終的には200ものラジオ局がディスコ・ミュージック専門局となりました。

 全米のディスコ自体もさらに驚異的なスピードで広がりをみせ、1978年の終わり頃には全米で2万件のディスコが存在するに至りました。

 1960年代の後半、ヴェトナム戦争からの撤退を表明するも泥沼化の一途を辿っていたアメリカ。国内では反戦運動はもちろん石油危機に始まり、景気沈滞化によるインフレ、経済格差、リベラリズム、過剰な抑制制作により派生した公民権運動、フェミニズム、ゲイ解放運動と多くの政治問題が山積みになっていた10年でしたが、そんな中、不平不満を持つマイノリティの人々の輪から始まった70年代のディスコ・シーンは、不景気により路頭に迷うそれまでは保護されていた立場の白人達もが現実逃避の場としてダンス・フロアに集って行き、遂には世界をも巻き込んだ一大旋風を巻き起こしたのです。

 もちろん、そこにはセクシャリティーの開放も含む肉体的表現の方法としてのダンスの台頭という側面がありましたが、この時代のブームはただ単純にストレスのはけ口として誰もが飛びついたブームに過ぎなかった面が大きかったと思います。1979年には、そうした時間をかけて辿り着いたディスコの大ブームは、流行の宿命でもありますが、あっという間に、驚くほどの速さで終息に向かうのです。

 1979年にニューヨークではストーン・ウォールの反乱から10周年を記念するパーティも行われますが、そうしたディスコ時代に反発し、シカゴのロック専門ラジオ局のDJスティーブ・ダールを中心にディスコはダサイキャンペーン「ディスコ・サックス」が始まりました。7月12日に野球場に集まり、火葬用の薪で作られた山に次々にディスコのレコードを積み上げ、口々にディスコはダサい!と叫びながら爆発されたという「ディスコ・サックス」イベント等の運動はあっという間に全米各地に広がりを見せます。そうしたキャンペーンはあっという間に強い力を産み、まず全米のラジオ局がどんどんディスコから離れ、ロックやAOR等へと鞍替えして行くのでした・・・・・

さらにはブームの終演と共に、恐ろしい病気が蔓延していきます。その正体すら分かるのに恐ろしい程の時間を要した新しい最悪の病、エイズがやってきます。紹介してきたDJ達始め、当時のディスコ関係の多くがゲイだったこともあり、1980年代はそうしたディスコの関係者達を次々にことごとく失って行く、正に 喪失の時代を迎えて行くのでした。

To Be Continued