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Part7 〜僕らに今、Discoが必要な理由〜
国内のディスコの歴史

 
 さて今度は日本での娯楽としてのダンスやディスコ、そしてダンスミュージックの歴史を振り返ってみます。日本ではどのような流れでダンスは、ディスコはポピュラーになっていったのか?そして日本でもディスコという場所は日常の抑制から逃げ出す場所だったのでしょうか?

 日本の集団的なダンスの歴史や事情と言うと、真っ先に思い出されるのが阿波踊りに代表される、地域の祭りに根ざした集団での踊りが広く一般市民に浸透し、時代を超え受け継がれているという事実です。元来ハレの際には集団でのダンスを、が基本の王国だと言う印象を強く持っている日本人はすごく多いと思いますが、それは一体いつどんな形で根付いたのか? 歴史をニューヨークよりさらに前に戻って、改めて近代日本の庶民とダンスとの歴史、そして踊る場所=ダンスホールの変遷を探ってみます。

 近代、明治以降の日本にダンスがやって来たのはやはり海外からと言っていいかと思っています。もちろん幕末の世直しを訴える民衆運動と言われ全国的に広がりを見せた「ええじゃないか」騒動も、口々に「ええじゃないか」と連呼しながら狂喜乱舞して町を練り歩く集団でのダンスでしたし、後述しますが盆踊りや祭礼での踊りも歴史深い民衆とダンスの関係だったことは間違いないですが、現代に繋がる「純粋に娯楽として音楽で踊る」という行為は、明治以降の欧化政策と共にワルツ、ポルカ、ポロネーズというダンスの為の音楽と共に主にヨーロッパから輸入された鹿鳴館を代表とする社交ダンスをその根に考えると分かりやすいものになります。

 外国人を中心として特権階級だけのダンスであった明治期の社交ダンスも鹿鳴館時代が過ぎた後も、舞踏場や私邸など様々場所を変え市民に広がっていき大衆の娯楽となっていきます。

 大正期になるとそうした土壌にさらにアメリカから踊る為の音楽、ジャズが輸入されて来ます。1923年には早くも大阪で日本初のプロフェッショナルのジャズ・バンドと言われる「ラフィング・スターズ」が生まれ、ダンス愛好家達のパーティでダンスの為のジャズの演奏を始めます。そうした踊る文化、ダンス文化がやがて一般にも広がっていき、バンドを呼び込む予算やスペースの無いお店では戦時下のパリのようにバンドの代わりにレコードをかけ客を踊らすようになります。「踊らすバー」と呼ばれた、そうしたお店の発祥地とも呼ばれた大阪のバー、“Cottage”で、やがてアメリカ遊学から戻った加藤兵次郎が持ち帰った、その後の日本の歴史にも大きな影響を与える、あるシステムを始めます。そのシステムとは、客がチップをお店が雇い入れた女性ダンサーに渡し一緒にダンスを楽しむという遊び方から発達した、チップの代わりに店が用意した綴りチケットを一枚ずつ一緒に踊りたいダンサー達に手渡し踊るという、タクシー・ダンスホールと呼ばれるスタイルの営業形態でした。タクシー・ダンスホールはあっという間に大きな人気を博し、大規模なダンスホールが次々に生まれ、同時に大正末期〜昭和初期にはジャズ自体も大阪で大きく花開き、道頓堀ジャズと呼ばれる隆盛を迎えるのでした。

 タクシー・ダンスホールの流行によりダンスとダンス・ミュージックは特権階級の元からも解き放たれ、一気に大衆の娯楽となっていきましたが、同時にダンスホールは男性が女性ダンサー達と肉体的接触を伴うサービスの場ともなっていき、昭和初期には関西広域に広がりを見せると同時に当局からの激しい取り締まりとの戦いを繰り返すという、前述した2010年代の風営法の取り締まりによるクラブとの抗争と全く同じ図式の歴史を、場所も同じ大阪でスタートさせたのです。

 昭和に入りジャズとダンスのブームは当然東京に入って来ます。都内にも次々に大小様々なダンスホールが生まれました。大阪同様、都内でもそうしたダンスホールへの取り締まりが強化されていくというイタチごっこも始まりますが、そうした中人気を博した大規模ホール“Florida” は当時モダン昭和のメッカと呼ばれ文化人達のサロンとして有名になりました。所属バンドはジャズを演奏するバンドとタンゴを演奏するバンドがいて、それぞれ交互で演奏し踊らせていきました。

 そんな昭和初期にはもう一つ前述した日本ならでは集団でのダンスの歴史に重要な出来事がありました。実は民間伝承ではなくレコード会社が自社の利益の為に生み出した、新作の民謡とも言える「東京音頭」から始まるご当地音頭のヒットです。実は今日も続く、祭の夜、櫓の上でレコードに合わせ叩かれる大太鼓に合わせ、決まったフリで輪になり集団で踊るという、盆踊りの流行のきっかけはレコード会社が自社主催の講習会をダンスホールなどで行い続けたという営業宣伝からでした。レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚に登り、「東京音頭」の流行はその後のダンス・ミュージックのヒットの産み方の雛形にもなっていったのです。

 そうして広く庶民に広がったダンスとダンス・ミュージックでしたが、1937年、日中開戦後には一気に弾圧が強まり、翌年には全てのダンスホールが営業停止になります。

 敗戦後、そうしたダンスホールはこれまでとは目的が異なる形で復活していきます。そう、占領軍の為の慰安施設としてダンスホールが再開されました。ダンスホールは、先日までディスコ/クラブが苦しめられた風営法下に置かれる歴史の下敷きともなった、占領軍兵士のための慰安婦達がダンサーとして働く場となっていったのです。そうして復活したダンスホールは1948年施工の風営法下のもと、キャバレーなどと同様の規制の中の営業形態ともなります。

 そうしたダンスホールで戦後流行って行ったダンス・ミュージックはやはりアメリカからの影響が大きく、その一つに本場同様アメリカ経由の南米音楽、ラテン・ミュージックがありました。国内でも1955年前後に最初に流行したラテン・ミュージックがマンボ。マンボ王とも呼ばれアメリカでも絶大な人気を誇ったペレス・プラード、そしてザヴィア・クガート楽団の来日で、エキゾチックでエロティックな南米音楽は一気に国内に広まり、最新のダンス・ミュージックとなりました。これはまたコロンビア(=ペレス・プラード楽団)、ビクター(ザヴィア・クガート楽団)という国内のレコード会社が競ってダンスやダンスホールを利用しヒット曲を作り出したという「東京音頭」以降の営業/販促の成果でもありました。さらには美空ひばりを代表とする国内の人気歌手たちにもマンボのリズムを取り入れたオリジナルを作らせ、次々にヒットさせて行き、さらなる国民的なブームを作っていきました。人々はこぞってダンスホールに詰めかけ、それぞれが接触することのない、気ままにステップを踏む、激しいマンボ・ダンスに明け暮れたのです。こうしたブームで接触を基本とするタクシー・ダンスホールのようなペア・ダンスは次第に流行遅れとなっていきましたが、マンボ・ダンスの熱狂ぶりに世間はダンスホールの集う若者達に不良の烙印を押し、ダンスホールは教育委員会からも締め付けを受け、その後のロカビリー〜ツイスト〜竹の子族に繋がる踊る不良達という図式/色眼鏡も生まれて行きました。

 その後国内のダンスホールにも、カリプソ、チャチャチャ、ドドンパと言ったアメリカ経由のダンスが、様々なヒット曲と共に盛り上がり続けます。前述した様に60年代に入るとアメリカではダンス狂時代と言われる、多様なダンスが次々に飛び出していく熱狂のダンス時代を迎えましたが、日本国内でも同様に多様なダンスがブームとなり、さらにはツイストの大ブームを迎え、日常の抑制から逃げ出すという理由で集い踊るという流行は、1960年代半ばには全国的な規模となって行きます。

ではここからは東京を中心とした歴史を追っていくことにします。その集い踊る場所は次第に「踊り場」と呼ばれる様になって行きます。渋谷にも人気の“Crazy Spot”(1964年開店)などが存在しましたが、実際はこんな様子のようでした。

「当時、最先端のサブカルチャーを愛する若者が集う街と呼ばれた新宿に数多く誕生していきました。時代はヴェトナム戦争の真っ只中、日本に在留していた多くのアメリカ軍兵士たちも週末になると詰め掛け、本番のソウルを聞きながら、お酒を楽しみ遊ぶという、中身は今日のクラブとまったく同じ様相の遊び方をしていました。ただしまだDJブースのようなものは無く、レジの奥にあるターンテーブルにレコードを載せ、曲が終わると次に変える(時にはアルバムをまんま聞かせる)という形態で、ロック喫茶に近い状況だった。」

 ビートルズが来日した1966年に開店し人気を博した新宿の“The Other”では、ダンスの上手い店員を常駐させ、曲に合わせ踊ってみせることで客を先導していました。そんな“The Other” の店員から大野克夫/作曲、阿久悠/作詞による「可愛い人よ」というヒットを生んだクック、ニック&チャッキーというある種アイドル的人気グループも生まれていきました。「踊り場」は次第に当時流行ったダンスの名前を借り、「ゴーゴー喫茶」とも呼ばれるようになっていきます。もちろん喫茶といっても今日イメージするそれとはまったく異なります。当時の新聞からその様子を垣間見ると・・・

「暗い廊下を通りぬけるとフロアが開ける。空間いっぱいに広がるゴーゴーのリズム。ほとんどがハイティーンの女の子だ。まっ赤なロングスカート、フリルのついたブラウスに三角ストール・・・いずれも目ジリを下げたことし流行のメーキャップの少女達が・・・」

と表現されていて、今日のディスコやクラブとも既に近しい状況なのが分かります。さらに引用すると当時懸念されていた事なども同様。「ゴーゴー喫茶で知り合った者同士が、自動車で深夜喫茶へ、そしてホテルへと転落のコースをたどる。とくに最近は無差別に友人になることが流行しており、名前も知らないまま不良異性交遊にふけるケースが圧倒的に多い。しかもこうした非行の温床となる深夜喫茶、ゴーゴー喫茶、風俗営業などはドンドンふえている。」

 ただし「ゴーゴー喫茶」にはディスコとはひとつ大きな違いがありました。フロアで皆を踊らせていたのはDJではなく、ロック・バンド編成をベースとした生バンドだったのです。おそらくダンス・パーティの延長として生バンドで踊るという事が日本でも根付いていた上に、同じく60年代に栄えたグループ・サウンズ・ブームの流れも合間って、多くのロック系ミュージシャンが生まれていました事からだったのでは思います。「ゴーゴー喫茶」は60年代半ばには全国的なブームを迎え、各店舗では出演バンドも競いだし、60年代後半では本場アメリカからアフリカ系アメリカ人のバンドを雇う代替えに、多くのバンドをフィリピンから招き入れ、一大フィリピン・バンド時代がやってきました。

 ニューヨーク同様諸説ありつつも、日本初と言われるディスコが東京にオープンしたのは1965年10月、数多くの社交ダンス・スタジオのオーナーでもあり「社交ダンスの父」と呼ばれた中川三郎が恵比寿に作った“ゆき・A・GoGo” と言われています。中川三郎の三女ゆきが若干20歳でオーナーを務め、やはりDJではなくバンドが音楽を担当していました。そのメンバーはテンプターズ、モップス、ミッキー吉野、柳ジョージなど後のグループ・サウンズ時代を支えるメンバーが様々なグループで腕を磨いていました。レパートリーはフォートップスの“Reach Out I’ll Be There” など一部のソウルも演奏されましたが、ヤング・ラスカルズ の“Groovin”始め 、ローリング・ストーンズの“Time Is One My Side”や“Tell Me”など当時のロック・ヒットも演奏され、バンドの休み時間にはジュークボックスでヒット・ソウルが流されるという独特のスタイルでした。中川三郎はその後、新宿・有楽町・横浜・熱海に同様のヴェニューをオープン。「社交ダンスの父」から「ディスコの父」にもなっていきます。

 1968年になるとそうしたメンバー達によるグループ・サウンズが大ブームとなります。その年のレコードの売上も一位がザ・タイガース、二位がザ・テンプターズ。洋楽ではザ・ビートルズの「ヘイ・ジュード」やサイモン&ガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」がヒットし、米国CBSのレコード部門と日本の電機メーカー、ソニーとの合弁によるレコード会社「CBS・ソニーレコード株式会社」が生まれ、オリコン・シングル・チャートが生まれています。3億円事件が世間を騒がせ、日本のGNPが世界2位に、そんな68年にさらにアメリカに影響を受けたヴェニュー、“Mugen” が東京の赤坂にオープンします。オープン当時のウリはディスコではなく、どちらと言うと高級ゴーゴークラブというイメージ。当時のニューヨークで流行していたサイケデリック・ムーブメントをコンセプトごとを輸入し仕立てました。サイケな色彩の空間の中、やはりレコードではなく、オープン当初はアフリカ系アメリカ人による生演奏で踊らせていました。後にバンド演奏が一旦終了すると、なんと上から宇宙船型のDJブースが降りてきてDJタイムになるというバンド/DJの混合型になります。そうしたDJにスポットを当てた最初のヴェニューとも言えるかと思います。

 当時赤坂の人気高級クラブ “Caesars Palace”が新たに赤坂に大人を踊らせるための店として企画、空間プロデュースはセツ・モード・セミナー出身でメンズマガジン『STAG』の編集長でもあり、TBSテレビ 「ヤング720」に横尾忠則、篠山紀信らと共に出演していた(後に『東急ハンズ』の企画・開発コンサルティングから『QFRONT』プロジェクトの総合プロデュースを手がけ、 竹下通りに最初のブティック『COUNT DOWN』もオープンさせる)海外事情にも詳しかった浜野安宏が担当。藤本晴美が担当する彼女自身の手によるオーバーヘッド・プロジェクターにカラーインクとオイルとを混ぜ作り上げた独特で斬新なサイケデリックな照明も話題となり、さらにはアイク&ティナ・ターナー、サム&デイブ、コン・ファンク・シャンのような当時の大物ソウル・スター達がライブを繰り広げた店としても世界的に話題となって行きます。同年に歴史的ヴェニュー、“Electric Circus” を生んだニューヨークとシンクロするかのような今日に続くディスコ/クラブの歴史がスタートしたのです。

 1971年、全米で「ソウル・トレイン」が放送開始になった年。日本の音楽界ではザ・タイガースが解散し、南沙織、小柳ルミ子、天地真理が揃ってデビュー。グループ・サウンズからアイドルへとブームが移り変わって年でした。洋楽ではシカゴ、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、グランド・ファンク・レイルロードといったニューロックと飛ばれたロック・バンドが相次いで来日しコンサートを行い、ロック・ブームが本格的に根付いていった年に、“Mugen” のヒットも受け、日本で初めて自らディスコティックを名乗り営業を始めたのヴェニューが生まれました。場所も同じく赤坂、しかも“Mugen”と同じビルにオープンしたのが初のディスコと呼ばれる “ByBLos” でした。ただしこちらの営業形態はまだ生バンドの演奏がメイン。黒川紀章デザインによる洞窟のような入り口からのデザインも特徴的で、その先に穴倉のようなバーが、そして階下にフロアという、いかにも最先端ディスコな構造でした。有名だったのが入り口での服装チェックによる入場規制。その為“ByBLos” に入場できる=スノッブなステータスということで、多くの芸能人や当時を代表する有名人やクリエーター、外人モデルや来日アーティスト達までもが集まることで有名でした(当時のアメリカの人気ロック・バンド、シカゴのメンバー、テリー・キャスが来日時に立ち寄った時の模様を歌ったと言われている、その名も「Byblos」という曲まで存在します)。そんなところはニューヨークに先駆けた日本版“Studio54”という印象もありますが、店内の音楽も次第にDJも登場しオールラウンドな選曲となって行きますが、オープン当初はロック色の強い生バンドの演奏でニューヨーク的なディスコとは幾分中身は違っていました。

 では日本で最初に生バンドではなく、DJだけが踊らせるディスコが生まれたのはいつだったのでしょうか?こちらは1971年、パンダやボーリングがブームとなり第二次ベビーブートとなったこの年の9月に六本木にオープンした“Mebius” が最初と言われています。黒く統一されたフロアに聳える宇宙船のようなDJブースでレコードをプレイする、日本初のDJのみによる営業形態となっていました。後に“Leopard Cat”に生まれ変わりサーファー系ディスコとしても有名になり六本木ディスコの老舗の地となり、やがてくる六本木地域の一大ディスコ街の布石となります。

 もう一つ、ニューヨーク、それもマンハッタンという極めて限られた場所に集中してディスコが花開いたアメリカとは異なる、都心一点集中型でない日本のディスコ事情もありました。それは敗戦後、日本各地にできた米軍基地。米兵が駐留するいわゆる基地の街ならではの状況がありました。例えば1973年には米軍立川基地は日本に返還され、すぐ横の福生にある米軍横田基地に移動されるのですが、それまではやはり米兵たちの溜まり場となるディスコやバーが多く、新宿よりも先に新しいレコードとステップが見聞きできると言われ、足げなく通う日本のファンもいたようです。

 1973年、国内では宮史郎とぴんからトリオの『女のみち』が大ヒット、ガロの「学生街の喫茶店」、沢田研二の「危険なふたり」、ちあきなおみの「喝采」、かぐや姫の「神田川」など様々なジャンルの音楽がヒットしていた時代。コモドアーズの「マシン・ガン」、オージェイズの「ラヴ・トレイン」、スリー・ディグリーズの「荒野のならず者」、ロバータ・フラックの「やさしく歌って」(コーヒーのCMにも採用)などアメリカのソウル情報もリアル・タイムに入ってくるようになり、次第にソウルやディスコという単語が一般的になって行きました。そんな中、前年にメジャー・デビューを果たした、アメリカのジャクソン5のヒットに強く影響された沖縄生まれの5人の兄弟、フィンガー5がお茶の間に大ヒットを連発していきます。沖縄出身で米軍基地周りで鍛えられた、アメリカのソウル・ミュージックの影響下の5人のフォーメーションを活かしたダンスを演奏し歌いながらパフォーマンスし、一躍時代の顔となりました。デビュー以来彼らの作詞を担当していた阿久悠はフィンガー5でも何曲も作曲を担当した都倉俊一と共に、アイドル歌謡でデビューした後人気が低迷していた山本リンダを、ダンス歌謡タイプの“どうにもとまならい”、“狙いうち”で大復活させます。へそだしルックと呼ばれた露出の多い衣装も話題でしたが何よりも扇情的な歌詞でセクシーに、激しく踊りながら歌うそのスタイルはアクション歌謡と呼ばれました。明らかにマンボ歌謡の時代からつながる、リズム歌謡の’70年代ヴァージョンがそうして次々にヒットし紅白歌合戦に出演するまでお茶の間に浸透していきます。

 ジェームス・ブラウンも初来日したそんな73年、新宿と六本木に“Canterbury House”がオープンします。後に複数の店舗に枝分かれし、新宿の東亜会館を一大ディスコ・ビルへと変えていくきっかけともなる老舗ディスコもこの時期に生まれました。この頃、さらにディスコを広く浸透させる日本独特のダンス・カルチャーも生まれていきます。前述のTV番組ソウル・トレインの国内放送が始まり、アフリカ系アメリカ人のダンスも目にするようになってきましたが、どうしてもそんな風に身体を動かせないと畳の上で悩んでいた日本人がソウル・ミュージックに合わせて、簡単に踊りやすい方法が編み出されたのです。それは集団で繰り返しのある決まったステップを踏むという事でした。ステップ・ダンスと呼ばれた日本独特のダンスを広めた男が、前述の“The Other” から生まれた人気グループクック、ニック&チャッキーの故ニック岡井でした。彼は日本人でも振り付けさえ覚えてしまえば簡単にディスコで踊れるようにと、数多くのステップを生み出しました。それもディスコでのヒット曲と連動し細分化してき、Free Chachaと呼ばれた通称ハマチャチャは140種類のバリエーションまで存在したと言われています。彼がスタッフを務めていた新宿の“Get”はステップ・ダンスの総本山と呼ばれ、夜な夜な大勢の常連たちが集い一斉に同じステップを踏み出し、そんな姿に憧れる若者たちもが続々と詰め掛けこぞってステップを覚える、そんな独特のカルチャーが生まれいきました。ステップはあっという間に各地のディスコに広まっていき、後に原宿竹下通りの竹の子族やパラパラなど日本独特のダンス・カルチャーへと受け継がれていく事になります。ニューヨーク同様日本でもダンスとディスコは互いにシンクロし合いながら広く浸透していきます。

 前述の六本木“Mebius” のヒットにより、60年代ゴーゴー喫茶の頃は新宿だった踊り場のメッカの様相も次第に変化していきます。74年に同じく六本木で同じニューヨークでもマンハッタンではなくハーレムにあるようなディスコをイメージした“Afro-Rake” が、そしてパリの社交界をイメージした豪華絢爛なディスコ“Castle” という真逆とも言えるコンセプトを掲げたヴェニューが次々に生まれます。“Afro-rake” の仕掛け人は70年代にイラストレーターとして数多くのレコード・ジャケットを制作し、DJ、ダンサーとしても活動していた江守藹。音楽はもちろんソウルやファンク、従業員は皆アフリカ系アメリカ人、食事のメニューもソウルフードという徹底ぶり、客も半数以上はアフリカ系アメリカ人で常連の日本人客の多くもアフロ・ヘアだったといいます。営業スタイルはアフリカ系アメリカ人のバンド演奏とDJとの混合型。当時人気のラジオ番組「オールナイト・ニッポン」のDJ、糸居五郎もDJとしてレギュラー出演していました。一方の“Castle” はジャン・キャステルがパリにオープンさせたフランス社交界の高級会員制ディスコの姉妹店としてオープンしました。初代マネージャーにはフランス留学から戻ってきた、27歳の岡田大貳が就任。内装は黒大理石を用いたゴージャス一色、入場するにはまず会員になることを義務付けられ、また来店の際には正装であることを課しました。当然会員の多くは外国人や大企業の役員連中、もしくはお金持ちのボンボン達。ディスコとしては斬新なその営業スタイルとこだわりは見事に当たり、当時“Castle”の会員権を持っていることは遊び人の大きなステータスとなりました。また“Castle” はその年に誕生した後に一大ディスコ・ビルになっていく六本木スクエア・ビルに登場した最初のディスコでもありました。

 前述したアメリカで「ビルボード」誌がディスコ元年と認定した74年。東京にも他に様々な形態のディスコが生まれていきます。新宿に登場した“Tomorrow USA” は2,000人を超える収容する巨大なディスコとして大きな話題になりました。ダンス・ユニットが登場するショータイムや巨大なレース・カーテンが降りてくるチークタイムなど趣向も凝らしたヴェニューで人気を博しました。六本木には“Afro-Rake” の方向性を組む本格的なソウル・ミュージックがウリの“Embassy”がオープン。やはり客も横須賀や厚木から通うアフリカ系アメリカ人の米軍兵士たちと彼ら目当ての日本人女性たちがメインで、店員もアフロ・ヘアーと派手なソウル・ファッションに見を包み、やはり常連の日本人客も多くはアフロ・ヘアー。当時日本人が本格的なアフロ・ヘアーにするのは苦労も多かったようで、茨城のソウル・ファンの兄弟が経営し、特注だったという極細のロットで仕上げる「弦巻」という美容室が、“Embassy” の店員や常連たちにも人気の店となっていました。以前はディスコと言えば新宿を目指し、やって来ていた米軍兵士たちの足が次第に六本木へとシフトしていき、新しいディスコのステっプは次第に六本木からと言われるようになっていきます。

1975年5月、新宿に新たなヴェニュー“Tsubaki House” が誕生します。新宿テアトルビル5Fに登場したこのヴェニューは、面積628平米、客席数350席、総工費7,500万円という大型のものでしたが、そこにスタッフとして入った、後に“Turia”や“Gold”という伝説のディスコを次々にプロデュースしていく(元“Canterbury House”のスタッフでもあった)日新物産の佐藤俊博が新たな歴史を作り出します。オープン当初、人の入りが少なかった事から、彼は近くの新宿二丁目のゲイ連中を積極的に店に招き入れます。当時ニューヨーク以上に閉鎖感のあった彼らに大箱ディスコという「日常の抑制から逃げ出す場所」を提供していったのでした。やがてゲイ達からも愛されていく“Tsubaki House” は、一気に東京でもニューヨークともシンクロした新しい時代のカルチャーを生み出していく事となります。ファッション性にも富んでいた彼らの影響で、やがて“Tsubaki House”は音楽のみならず、DCブランドと呼ばれた、JUN、BIGI、NICOLEなどのブランドが一斉に伸びていく時代を背景に、ファッショナブルな流行の発祥地としてファッション業界をも巻き込むシーンの中心となっていきました。東京のディスコにシーンと呼べるものが次第に出来上がっていきました。

1975年には「全国ディスコ協会」が発足します。設立者は“Embassy”の店長でもあり、ダンス・チーム「オール・ジャパン・ソウル・トレイン・ギャング」を組み、その振り付けもしていた日本のソウル・ミュージック界の重鎮、ドン勝本。協会は各地のディスコやチャートの紹介などを掲載した初の専門的な情報誌であった月刊小冊子「ギャングスター」を発行、イベントやダンス・コンテストなども主催し、70年代のディスコ業界の底上げに役割を果たしていきます。1976年には渋谷に“Black Sheep” がオープン。

この時代、1975年〜1976年を日本の第一次ディスコブーム、1977年〜1979年を第二次ディスコブームと細かく分けて語る人も少なくないようです。そうした変遷をまず音楽から探ってみます。

To Be Continued