まず1976年のディスコ・ヒットというと
KC & Sunshine Band – Shake Your Booty
The Miracles – Love Machine
Wild Cherry – Play That Funky Music
The Manhattans – Kiss And Say Goodbye
Andrea True Connection – More, More, More
Ritchie Family – The Best Disco In Town
The Sylvers – Hot Line
Vicki Sue Robinson – Turn The Beat Around
Walter Murphy – A Fifth Of Beethoven Midnight Special
The Trammps – Disco Inferno
あたりが良くプレイされていたようです。一見して全てがアメリカからのディスコ・ヒットの輸入曲だったという事が挙げられると思います。マンハッタンズのスロウ・ナンバーがヒットしていたあたりはチークタイムが人気だった日本の当時のフロアを思い起こさせますね。 ’76年とは他にはどんな時代だったかというと、『ブロックくずし』というアーケードゲームが喫茶店に登場し、1978年登場の『スペース・インベーダー』の大ブームへの足がかりとなる、100円玉を持ってゲームをやりに喫茶店に通う時代の幕開きの年でした。歌謡界的には前述の阿久悠/都倉俊一コンビが手がけた新たなダンス歌謡コンビ、ピンク・レディーが1976年にデビュー。デビュー時にはキワモノ扱いされた激しくセクシーなダンスが、その健康的なイメージもあって、あっという間に子供達に真似され大ヒット。オリコンで連続9曲が一位に、10曲が連続してミリオンセラーになるという昭和のモンスター・アイドルとなっていき、ダンス歌謡の歴史を刷新していきます。
ではそんな時代、1977年の東京のディスコ・ヒットを挙げてみます。
The Emotions – Best Of My Love
Hot Blood – Soul Dracula
Boney M. – Sunニューヨーク
Heatwave – Boogie Nights
Amanda Lear – Queen Of Chinatown
Chic – Le Freak
Santa Esmeralda – Don’t Let Me Be Misunderstood
Thelma Houston – Don’t Leave Me This Way
D.D. Sound – 1234 Gimme Some More
Baccara – Yes Sir, I Can Boogie
The Floaters – Float On
このタイミングで早くも日本独自のヒット・チャートも出来つつあったことを感じます。ボニーM、シック、テルマ・ヒューストンなど、今までのアメリカからのビッグ・ヒットに加え、フランスの企画的バンド、ホット・ブラッドの「Soul Dracula /ソウル・ドラキュラ」や、ヨーロッパの人気モデル、アマンダ・レア、スペインのバカラなどヨーロッパからも一気に踊れる曲をインプットしてきていた事が分かります。(やはりスロウ・ナンバーのフローターズの曲チーク・タイムヒット)。
そして1978年で区切りたくなる大きな変革を生んだ映画、世界中にディスコを蔓延させた大ヒット映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本でも封切られ第二次ディスコ・ブームを迎えます。
「サタデー・ナイト・フィーバー」はニューヨーク同様日本でも一大ヒットとなり、日本で映画が封切られた78年には新宿や六本木だけでなく、渋谷、上野、池袋、吉祥寺などの繁華街でも一気に無数のディスコが開業した年となりました。
1978年はそうした機運を受け、音楽のチャートにもディスコ・ヒットが名を連ねます。アメリカから1年遅れてリリースされた「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンド・トラックは洋楽でかつ二枚組にも関わらず、’78年にオリコンのアルバム・チャート1位に。この年の他の1位のアルバムはというと、さだまさしの「私花集」、アリスの「ALICE VI」、松山千春の「歩き続ける時」、キャンディーズの解散コンサートのライブ盤「キャンディーズ ファイナルカーニバル プラス・ワン」、矢沢永吉の「ゴールドラッシュ」。いかに「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンド・トラックが1位を獲得したという事が、革新的な事だったのかが分かると思います。またキャンディーズの解散コンサートのライブ・アルバムは3枚組でしたが、その片面を丸々使って当時のバックバンド、MMP(後のスペクトラム)の演奏による洋楽カバーが収録されていましたが、その選曲にもクール・アンド・ギャング(オープングSE)やアース・ウィンド・アンド・ファイヤー、ワイルド・チェリーらのディスコ・ヒットが取り上げられていた事も、ディスコとその音楽がいかにお茶の間レベルにまで浸透していたのかが分かります。続いて沢山のディスコ・ヒットがシングル単位でも生まれていき、次第にそのチャートは日本固有のカルチャーをも生んでも行きます。
真っ先に牽引役を果たしたがスエーデン出身の男女2名ずつの4人組、アバ。1977年のシングル、「Dancing Queen」は35万枚(’77年4月のオリコン19位)、「Gimme! Gimme! Gimme! 」は23.5万枚(’79年11月の17位)のヒットに。前年からヒットし続けたサンタ・エスメラルダの「Don’t Let Me be Misunderstood / 悲しき願い」は’78年2月にはオリコン7位になります(通算37.1万枚)。’78年3月には「サタデー・ナイト・フィーバー」のアルバムからヒットしたビージーズの「Stayin’ Alive」が21.6万枚売り上げ、オリコン19位。同じ月にアース・ウィンド・アンド・ファイヤーの「Fantasy /宇宙のファンタジー」が17.4万枚売り上げ、22位。西ドイツ(当時)のディスコ・プロジェクトであったアラベスクのシングル、「Hello Mr. Monkey」は38.8万枚売り上げ、’78年4月にオリコン8位に。78年6月にはビージーズのさらなる「サタデー・ナイト・フィーバー」からのシングル、「Night Fever / 恋のナイト・フィーヴァー」が37万枚売り上げ、オリコン4位というように毎月ディスコからヒットが生まれていきました。イギリス出身の3兄弟のビージーズは、本来独特のハーモニーが魅力の甘いポップス・タイプのグループで「Massachusetts」や映画「小さな恋のメロディ」の主題歌「Melody Fair」のヒットなど’60年代から活躍してきたグループでしたが、1975年の芸能生活20周年記念アルバム『メインコース』からシングルカットされた「ジャイヴ・トーキン」、「ブロードウェイの夜」がディスコ・ブームに乗り、全米大ヒットしたタイミングでの「サタデー・ナイト・フィーバー」での起用ということもあり、’78年の3月には携わった4曲が上位5位にランクイン、’77年の最終週から翌’78年の8月までの32週に亘り、携わった楽曲が常に1位の座を独占というビートルズに匹敵する一大ブームとなりました。
そのブームはさらに加速していき’80年にはノーランズの「I’m in the Mood for Dancing /ダンシング・シスター」が1位になり、なんと67.4万枚というビッグ・ヒットになります。アメリカからの直球ディスコ・ヒットだけでなくアバ、アラベスク、ノーランズといった後にキャンディ・ポップと呼ばれる、ヨーロッパの企画モノ的ディスコ・グループがこぞって日本で大ヒットしていった事は(ドイツ勢が多いことも含め)、後のユーロビート・ブームへ続く日本ディスコ史の流れをしっかりと感じ取ることができます。当時日本でリリースしていたキャンディ・ポップのグループを上げておきます。
スエーデン出身 : アバ
西ドイツ出身 : アラベスク、ボニーM、ジンギスカン、バカラ、ヴェロニカ、パピヨン、グームベイ・ダンス・バンド 、ア・ラ・カルト、チェリー・レイン、アンジェリ(出身はエチオピア)
イギリス出身 : ノーランズ(アイルランド出身)、ドゥーリーズ
イタリア出身 : D.D.サウンド、ラ・ビオンダ
ベルギー出身 : エミリー・スター・エクスプロージョン、ガーネッツ
オランダ出身 : ドリー・ドッツ、シャンペーン、ドリス・ディー&ピンズベイブ、メイウッド、ベルヴュ
ハンガリー出身 : ニュートン・ファミリー
アメリカ/フランス混成 : サンタ・エスメラルダ
本当に沢山のキャンディ・ポップ・グループが日本デビューしていきました。ヨーロッパ出身以外の変わり種としては、国内のディスコの歴史とは切っても切れない国、フィリピンの出身、パッショナータというグループがヒットしたり(シングル「Himiko / 卑弥呼」は79年に9万枚のセールス」、アルゼンチン出身のトリックス(「Just Wanna Dance Tonight/Do・Ki・Do・Ki・センセーション」は1981年の6.6万枚のセールス)、日本企画でドイツに制作を依頼し作ったコズミック・ギャル(ピンク・レディーのカバーでデビュー)、全くの日本企画/制作のマルコ・ポーロ(シングル「Dschinghis Khan/ジンギスカン」は’79年に10万枚のヒット)まで百花繚乱の時代でした。ちなみにキャンディ・ポップという言い方も日本特有のもので、1960年台後半アメリカ発祥の、子どもでも口づさめるような親しみやすいポップなサウンドという意味を持つ、バブルガム・サウンドを真似して作りだした造語と言われています。
マルコ・ポーロもその一つでしたが、そうしたブームを背景に日本側もディスコ市場に向け、各レコード・メーカーこぞってアプローチし始めました。もちろんそれまでも特に70年代の歌謡曲はフィリーソウルやディスコ・ミュージックに強く影響を受けた曲を作ってきていました。先述したキャンディーズにも今でもNu Disco市場で人気な曲もありますし、人気を二分した前述のピンク・レディーももちろんその独特のダンスと切り離せないヒット曲ばかりでした。
中でも’60年代後半のグループ・サウンド時代から多くのビッグ・ヒットを生み出してきていた作曲家の筒美京平は
浅野ゆう子 – セクシー・バス・ストップ
桜田淳子 – リップスティック
平山三紀 – 熟れた果実
南沙織(Cynthia名義)- ゲット・ダウン・ベイビー
優香 – 胸さわぎ
岩崎宏美 – センチメンタル
山内恵美子- 太陽は泣いている
麻丘めぐみ – 夏八景
郷 ひろみ – 君は特別
石野真子 – 日曜日はストレンジャー
など当時の人気アイドルたちに明らかにソウル/ディスコの影響下の曲も数多く書き下ろしていました。またアメリカのフィリーソウルの人気グループであるスリー・ディグリーズに「にがい涙」という曲を書き下ろします(安井かずみ作詞の日本向けの日本語作品)。また自身でも1976年にDr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレスという匿名のディスコ・ユニットを作り(メンバーは当時既に人気のスタジオ・ミュージシャンだった後藤次利、鈴木茂、林立夫、矢野顕子)、後に浅野ゆう子にカバーさせる「Sexy Bus Stop / セクシー・バス・ストップ(’76年の18.9万枚を売り上げ25位)」、「Hustle Jet(’76年に5.3万枚、46位)」などのヒットを生んでいます(筒美京平は今日に渡り大ヒットを生み続け、作品の総売上枚数が一位の作曲でもあります)。
同様な国産匿名的ディスコ・ユニットの、後にビーイングで時代を担う長戸大幸や織田哲郎が参加していたスピニッヂ・パワーも、’78年にシングル「Popeye the Sailorman/ポパイ・ザ・セーラーマン」で16.4万枚のヒットを生みました。日本人ディスコ・プロデューサー、Satoshi “Hustle” Hondaと、後に人気ソング・ライターとして名を馳せる林哲司が’78年に組んだイースタン・ギャングは国内だけでなくヨーロッパやカナダでもリリースした輸出グループともなっていましたし、同じくSatoshi “Hustle” Hondaのディスコ・プロジェクト、ファンキー・ビューローの「Clap Oニューヨークour Hands Together」 も’77年に全国各地のディスコでヒット、’78年には菊田隆彦率いるU-DO(United Disco Object)がプロデュ-スした、日本人とプエルトリコ人のハーフの坂井ひとみを中心としたプロジェクト、トミー・ザ・ビッチの「Give It To Me」も当時の人気テレビ・ドラマ沖雅也主演「俺たちは天使だ!」で使用されヒットしました(トミー・ザ・ビッチはその後も探偵物語、大都会PARTIII、プロハンターなど人気のアクション・ドラマで頻繁に使用)。’80年に音楽評論家、吉岡正晴プロデュースの日本のスタジオ・ミュージシャンとアメリカの黒人シンガーを起用して制作したディスコ・プロジェクト、ミッドナイト・パワーズの「Dance It’s My Life」(アレンジはファンキー・ビューローも手がけた巣瀬哲生)は全米のディスコでもヒットするなど、実に多くの国産ディスコ・ソングも生まれて行きました。
このようにディスコ・ミュージックと日本の歌謡曲は親和性が非常に高く、それは戦後の日本にアメリカ経由のラテン・ミュージックがダンス・ミュージックとして押し寄せた時代の歌謡曲との関係とも非常に近いものを感じます。さらに70年代〜80年代のディスコ・ミュージックの凄かったところはアメリカ発だけでなく、ジョルジオ・モルダーの一連のヒットを代表とする、UKやヨーロッパからも世界的なディスコ・ヒットが生まれたことでした。
またディスコにはさらに外人が日本語で歌うヴァージョンも多く見られます。エボニー・ウエッブ「ディスコお富さん」、「ディスコ佐渡おけさ」、「ディスコ花笠音頭」などはさらに歌謡界に影響を与え、三橋美智也までもが自作の「夕焼けとんび」を「The Tombi」とタイトルも変え、ディスコ・アレンジでリリースしています。浜村美智子の「バナナボート」、美空ひばりの「お祭りマンボ」、渡辺マリの「東京ドドンパ娘」と数々の国産ヒット曲を産んだ、戦後のラテン・ミュージック同様、ディスコ・ミュージックとはロックなどアーティスト性の強い音楽ではなく、国によってそれぞれの現地語に置き換えたヴァージョンや歌手自体を変えたカバー・ヴァージョンが違和感なく生まれ、曲自体もどんどんその地域と密着して変化して行く、そんな力を持ち合わせた音楽だということが分かります。そうした力を持ち合わせたディスコ・ミュージックだからこそ、‘70年代の筒美京平の一連の仕事や、ピンクレディーなどのアイドルを、’80年代のユーロビートをカバーヒットさせたウインクなどのJ-Popアイドル達を、そして安室奈美恵やマックスの時代へと繋がって行く昭和のダンス歌謡の道を生み、日本の歌謡史にも大きな影響を与え続けたのです。
また1979年には人気の頂点だったピンク・レディーをアメリカに送り込み、人気プロデューサーだったマイケル・ロイドを迎え現地制作した「Kiss in the Dark」は全米でも37位(国内でも11.1万枚売り、19位)のヒットになりました。さらにもう一つ、全く新しいダンス・ミュージックとして、ディスコから小学生にまでヒットしていったグループも「サタデー・ナイト・フィーバー」と同じ1978年にデビューしています。細野晴臣が高橋幸宏、坂本龍一と組んだイエロー・マジック・オーケストラ、通称YMOです。シンセサイザーとコンピュータを駆使した斬新なそのサウンドはダンス・ミュージックとして受け入れられ、後のテクノ / ニュー・ウェイヴ界にも大きな影響を与え、ワールド・ツアーも行い世界的に認知されたグループでした。細野晴臣が掲げた、マーチン・ディニーをコンピューターを使ってダンスミュージックに仕立てるというコンセプトも、ディスコからの視点で捉えると異国情緒=エキゾチックでジョルジオ・モロダー以降世界共通のダンス・スタイルとなりつつあったプログラミングされたダンス・ミュージックとして、各国のディスコが飛びつきやすかったのも当然のことだったと言えます。赤い人民服やテクノ・カットという彼らのファッションも斬新で、若者たちの間でもみあげを剃り落とすテクノ・カットも流行します。
そんな音楽自体も大ヒットし続けてきていた国内ディスコ市場、肝心なディスコはというと、六本木には六本木交差点から徒歩2分ほどにあったスクエアビル、新宿には歌舞伎町の東亜会館というディスコ・ビルと呼ばれる聖地までが誕生。スクエアビルでは地下2階から10階までの12階中、1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになり、NASAグループの“Nepenta”、“GIZA”など多くの人気店が生まれました。歌舞伎町には300坪を超える大型店が次々とオープン、2,000人を収容できるフロアを持つ“Big Together”、“Independent House”などの人気店の人々が詰めかけました。当時は週末ともなるとディスコを訪れる人だけで3万人いたとされ、芋洗状態とまで言われるほどの大混雑ぶりでした。2011年に亡くなられた谷本捷三は当時、スクエアビルの中に10軒のディスコを持っていたと言われ、バブル時代には60軒近いディスコを経営していたとまで言い伝えられていますが、真偽はともかく当時のディスコ・バブルぶりを彷彿とする話です。
1980年代前後、都内に存在したディスコをランダムに挙げてみます。
六本木
“Castel” ※スクエアビルB2F
“Valentinos 〜玉椿 ※スクエアビルB1F
“Farmer’s Market” ※スクエアビル2F
“GIZAG” ※スクエアビル3F
“Samba Club” ※スクエアビル5F
“Studio One” ※スクエアビル 6F
“Chakras Mandala” ※スクエアビル7F
“Nepenta” ※スクエアビル8F
“Fou-Fou 〜Reve Japonesque” ※スクエアビル9F
“Kiwanis” ※スクエアビル10F
“Infinity” ※店長:ニック岡井
“Leopard Cat” ※「メビウス」跡地
“ザ・ビー”
“Rajah Court”(後にMaharajaチェーンを築くNOVAグループ)
“With”
“エリゼマティニオン” ※デヴィ夫人によりオープン
“Xanadu”
“Queue”
“JESPA”
“Mebius”
“Lexington Queen”
“Nirvanal / ナバーナ”(旧“Xanadu”)
“Climax”
“The Pacha”
新宿
“Canterbury House BIBA” ※東亜会館3F
“Canterbury House GREECE” ※東亜会館4F
“Big Together” ※東亜会館4F
“CINDERELLA” ※東亜会館5F
“Independent House” ※東亜会館6F
“GB-Rabbits” ※東亜会館7F
“Circus Circus” ※東亜会館7F
“Tomorrow USA” ※東亜会館7F
“Apple House” ※歌舞伎町
“Black Sheep” ※歌舞伎町
“チェスターバリー” ※歌舞伎町
“Milky Way” ※歌舞伎町
“Crazy Horse” ※歌舞伎町
“Independent House 歌舞伎町店” ※歌舞伎町
“Scat” ※歌舞伎町
“Hello Holiday” ※東宝会館4F
“Xenon” ※東宝会館4F
“One Plus One” ※東宝会館6F
“New York New York”
“Pop Corn”
“Boogie Boy”
“Radio City”
“ゲット”
“スキャット”
“ステージィ”
“Byblos”
赤坂
“Mugen”
“White House”
“Manhattan”
“Bootsy”
西麻布
“3.2.8”
“Tommy’s House”
やはり六本木と新宿ではプレイ・リストや踊り方も随分異なっていて、前述のオリコン・ヒットにまでなった曲などメジャーなディスコ・ヒット中心で踊る新宿に比べ、六本木はアメリアからのリアル・タイムのファンクやテクノ以降のロックもプレイされていました。
1980年頃の六本木のディスコでプレイされていた曲です。
Brothers Johnson – Stomp
Con Funk Shun – Got To Be Enough
Ray Parker Jr. &Radio – It’s Time To Party Now
Jermaine Jackson – Let’s Get Serious
Call Me – Blondie
GQ – Standing Ovation
Michael Jackson – Off The Wall
Average White Band – Let’s Go Round Again
The Whispers – And the Beat Goes On
Dazz Band – Let it whip
1979年頃には、そうした巨大ディスコとまた違った新たなブームがまず六本木から作られて行きます。’70年代後半辺りから話題となっていったサーフィン・ブームにあやかり、サーファー・ファッション専門誌、ファインが誕生、同様にこの頃創刊され人気のカルチャー誌となったポパイや女学生の間で人気だったJJなどで矢継ぎにサーフィンが取り上げられて行き、あっという間に若者たちの間にサーファイン・ブームが到来しました。サーフィンは自ずとハワイアン・トラッドを取り入れたそのファッション自体もブームとなり、次第にサーフィン自体はやらないにも全身サーファー・ファッションで身を固める、陵サーファー(シティ・サーファー)と呼ばれる層が登場して行きます(ファイン少女、ポパイ少年、JJガールなどとも呼ばれました)。男女ともスポーツ系のブランド服に身を包み、日焼けサロンで体を焼き、男は髪をオキシフルで脱色、女の子はブルーのアイシャドウにサーファーカット、そんな陵サーファー達がこぞってディスコに集い合うようになり、やがてディスコの景色を変貌させて行くほどの一大サーファー・ディスコ・ブームが到来しました。やはりこの時代でもディスコという場所は、リアルタイムに同様の価値観を持ち、そうでない他者や日常から逃げ込み、楽しみ合う場所として機能していたのです。
このブームは実はそれでまでディスコの流れを大きく変えるものでもありました。ニューヨークと比べ表層化したマイノリティ層が見えづらい東京ではディスコには疎外感を持つ地方出身者や不良少年少女=いわゆるヤンキー系が集い出す場所でした。それが次第に娯楽の場として一般のサラリーマンまでを巻き込むブームになっていったのが’70年代後半。ところがサーファー・ディスコはそうした歴史とは相容れないお嬢さま、お坊っちゃま系の私学生や若いOL層、小洒落たサラリーマン達がメイン層となり、そうしたディスコ・ブームの裏で’79年頃から独自に盛り上がって行ったのです。ポスト団塊の世代(1952~1957年生まれ)と呼ばれた若者たちがこの頃、大学生になっていき、熱すぎた団塊の世代への反動とも言える、政治論議には関心が無い「しらけ世代」や「ノンポリ」と称された若者になっていたのです。高度経済成長期に育ったそうした若者たちは、消費は豊かさと幸せの象徴として育ってきた為、新しい遊びやファッションにもいち早く飛びつき、やがてはバブルと進みこの国の経済を回し始めていたのです。彼らは踊り方もそれまでのディスコでの集団ステップ・ダンスという歴史を覆す、首と肩と腰の後ノリ程度のシンプルなダンスで、各々が思い思い楽しむフリーダンスに取って代わりました。次第にディスコ側もトロピカル・ドリンクを置き、店内もトロピカル・ムードの装飾になって行きます。音楽もファンク系から同様に’70年代後半から流行り始めていたクロスオーバー/フュージョン、そしてAORという、やはり洒落たムードのダンス・ミュージックが人気となります。その頃では東京でもすっかりDJ用の12インチ・レコードが一般的になり、そうした専門レコード店もあちこちにできてきました。
サーファー・ディスコで人気のあった曲を羅列してみます。
A Taste of Honey – Boogie Oogie Oogie
Junior – Mama Used To Say
GQ – Disco Nights
Kool & The Gang – Ladies Night
Shalamar – Take That To The Bank
Stargard – Wear It Out
Luther Vandross – Never Too Much
Stevie Wonder – Master Blaster
Phyllis Hyman – Dou Know How To Love Me
Narada Michael Walden – I Don’t Want Nobody Else
Alton McClain & Desti – It Must Be Love
The Sugar Hill Gang – Rapper’s Delight
Tom Browne – Funkin For Jamaica
George Duke – Shine On
The Crusaders – Street Life
George Benson- Give Me The Night
Grover Washington Jr. – Just The Two Of Us
Pablo Cruise – Love Will Find A Way
Kalapana – Black Sand
Hall & Oates – Kiss On My List
Bobby Caldwell – What You Won’t Do for Love
Doobie Brothers- What A Fool Believes
Rod Stewart – Da Ya Think I’m Sexy?
Kenny Loggins & Steve Perry – Don’t Fight It
The Rolling Stones – Miss You
山下達郎 – Funky Flushin’
笠井紀美子 – Butterfly
曲を聴いていくとアメリカからの直球ディスコ・ナンバーもあるもののそれまでのディスコ・ヒットとは傾向や質感が異なっているのが分かると思います。フュージョンやAORの他、「サタデー・ナイト・フィーバー」のヒット以降こぞって生まれたロック系からのディスコ・ヒット狙い曲やさらにAOR/フュージョン系の国産アーティストの曲もプレイされていくようになり、益々キャンディ・ポップも人気の大箱パーティとは異なる独自のムードが作られて行きます。集団で汗をかいて踊るという行為よりもより自分達のムードに見合った最先端のヒット曲で身体を揺らすという、踊れるかというポイントではなく、音楽自体のムードを最優先させていた様子を感じられるかと思います。
震源地の六本木では’70年代の“Xanadu”時代からシティ・サーファーやニュートラ族を集客させて来ていた“Nirvanal(元Xanadu)”や“Leopard Cat”、“Magic”、“Rajah Court”などが、やがて渋谷では“Candy Candy、新宿でも“B&B”、“Puka Puka”などが人気のサーファー・ディスコとなり、ブームはさらに広がって行きました。
もちろんディスコの全てがサーファー・ディスコになった訳ではなく大衆的な巨大ディスコも以前栄えていました。次第にディスコは多様化していったと言えると思います。’70年代後半には大箱はキャンディ・ポップのヒットにまで行き着き、あまりにも分かりやすく一般的になってしまったブームの反動ということもあったと思います。逆に新宿の大型ディスコでは大勢で輪になってステップ・ダンスを踊る行為が他の一般客に迷惑をかけるとの理由で禁止され、そうした日本のディスコ・カルチャーを彩った、集団での揃いのダンス・パフォーマンスはその場所を路上に求め、原宿の歩行者天国で話題となる竹の子族となって行きます(竹の子族も’80年にはチームは約50グループ、メンバーがおよそ2,000人になって行き、ギャラリー含め毎週日曜になると10万人が歩行者天国に集まるほどのブームでした)。
また当時のディスコではサーファー・ディスコとはさらに別に、音楽自体を第一に重きを置いたブラック・ディスコと呼ばれたヴェニューもありました(一部の音好きサーファー・ディスコ連中も通っていました)。六本木の“JESPA”や“Queue”などが代表格で、ザップ、キャメオ、ブリック、スレイブ、サンといった当時アメリカで人気のファンク・バンドの最新曲から、シュガーヒル・ギャング、グランドマスター・フラッシュなど生まれたばかりのHipHopがプレイされる、70年代のソウル・バーの文化を受け継ぎ、今日の音楽やジャンルに特化したパーティを基本とするクラブ・カルチャーに繋がるディスコも健在でした(HipHopは1982年に映画「ワイルド・スタイル」の公開にも後押しされ、最新ダンス・ミュージックとして、グラフティやファッション含め広がって行きます)。
同様に前述の新宿テアトルビル5Fに入っていた“Tsubaki House”や2丁目の“Fullhouse”はニュ-ウエ-ブ系ディスコと呼ばれ、“Tsubaki House” で毎週火曜日に行われるロンドン・ナイトのDJ大貫憲章などフリーランスの人気DJや選曲含め独自のパーティが生まれ、ロンドン・ファッションに身を包んだ文化服装学院、セツ・モードセミナー、モード学園、山野愛子ビューティースクールなどを中心とするエッジの効いた若者たちやミュージシャンを始めとする芸能人が集まっていました。“Tsubaki House”で開催されたファッション・コンテストで優勝した藤原ヒロシがその賞金でロンドンに行き、マルコム・マクラーレンやヴィヴィアン・ウエストウッドと出会い・・・で始まる藤原ヒロシ物語もこの場所から始まりでした。
ロンドン・ナイトのプレイ・リストの一部です。
The Clash – London Calling
Sid Vicious – My Way
Adam And The Ants – Goody Two Shoes
John Thunders & The Heartbreakers – Born To Lose
Blue Zoo – Cry Boy Cry
New Order – Blue Monday
Pigbag – Papa’s Got A Brand New Pigbag
The Specials – Little Bitch
Dire Straits – Sultans Of Swing
Big Country – In A Big Country
Flux of Pink Indians – Tube Disasters
Sade – Smooth Operator
そんな多様性も含め、盛り上がりのピークを迎えていた日本のディスコ・カルチャーに水を浴びすような大きな社会的事件が起こります。
To Be Continued