先だって紹介した、Kid CreoleことAugust Darnell流れの話を書いてみます。Dr. Buzzard’s Savannah Bandからいち早く脱退したAugust Darnellは新たなレーベルでプロデューサーとして活動を始め、さらにはDr. Buzzard’s Savannah BandのメンバーだったCoati MundiことAndy Hernandezを誘って新たなグループKid Creole And The Coconutsを始める事になるのですが、今日はそのレーベルの事について。
そのレーベル、名前をZEレーベルといいます。レーベルの発足は1978年、場所はニューヨーク。Michael Zilkha(マイケル・ジルカ / 英国人)とMichael Esteban (ミシェル・エステバン / フランス人)という2人の創業者の頭文字から命名されたZEレーベル。創業者の2人が英国人とフランス人で、かつ本社が米ニューヨークにあったという多国籍さもさることながら、実際にリリースしたアーティスト/曲のタイプは、もーぅ言ってしまえばなんでもありで、ある種ハチャメチャ(笑)パンク、ファンク、ロック、ノイズなどの前衛系、フリーキーなアバンギャルドからなんと形容したらいいか分からない風変わりなディスコ・サウンドまで、しかもそのアーティストの数は40組以上!その中にはKid Creole And The CoconutsやWas Not Wasというその後の時代を切り開くAugust DarnellやDon Wasといったスーパー・プロデューサー達のいたバンドやBill LaswellやBrian Enoまでもが関わっていたのでした。
レーベル・スタートのきっかけはそのBrian Eno絡みのアルバムからでした。Brian EnoがTalking Headsのアルバム『Fear Of Music』の録音のためにニューヨークに滞在していた際に、たまたま目撃した70年代末のニューヨークのライブハウス、CBGB周辺のストリート・シーンの新たな胎動をドキュメントとして収めたいと考え、『NO NEW YORK』というコンピレーション盤をZilkhaとEstebanがEnoと共に制作する事となったというのがZEレーベルのスタートでした。( James Chance and the Contortions 、Frictionのレックが在籍していたLydia Lunch & The Teenage Jesus & The Jerks、Arto Lindsayが在籍していたDNA、Marsという4組のオムニバスでした)。商業主義に向かっていくNew Waveへの反動として使ったとも言われるNo Waveという言葉自体も一人歩きし、マスコミは彼らポスト・パンク的存在を総称して“No Wave”と呼びました。
そんな1枚限りで終わりそうな企画アルバムから始まったにも関わらず、ZilkhaとEstebanはそのままニューヨーク周辺のポスト・パンクとも言えるカルチャー自体を、その行く末を続けて発信していこうと、本格的にレーベルとしてスタートさせる事になったのです。それが、ZEレーベル。二人は元々富裕層の出身でニューヨークにもジャーナリストとしてを訪れていた(資産家の息子で『Village Voice』の劇評家だったZilkhaと、パリで『ROCK NEWS』というパンク専門のミニコミを発行していたEsteban)ということもあり、ヨーロッパからの異邦人として、ある種そうしたポスト・パンク・シーン全体をも俯瞰していた、もしくは遊んでいたともいえるスタンスでした。なのでパンク内でのインディの枠に拘る事なく、わずかな予算で数日間で仕上げたと言われる『NO NEW YORK』を、アイランド傘下からをリリースする事にも成功し、結果世界的な評価を得る事ができました(その後も作品やアーティストごとに流通先を変えていき、結果的にZEは原盤制作会社のような存在でした)。またそうしたパンク・シーンへの単なるシンパシー等でなく、あくまでニューヨークの同時代性あるシーン自体を切り取る事に向かっていた二人でしたので、後にはレーベルの方向性もロックからディスコへ、その混沌と狂乱のカルチャーを切り取っていく事へシフト。やがてはCBGBではなく、ガラージュ・ハウスの発祥地である(Larry LevanがレジデントDJを務めていた)パラダイス・ガレージでプロモを流してもらいチェックしてからリリースするようなレーベルにとなっていきました。彼らはそうした周辺のパンクともファンクともジャズとも呼べない新しいダンス・ミュージックを「ミュータント・ディスコ」と呼ぶようになり、1979年に今度はそうしたアーティスト達を集めたコンピレーション盤『MUTANT DISCO』を発表、(その後合計4枚のコンピがリリース)、August DarnellやDon Wasを交互にプロデューサーに起用したCristinaや、James Chanceまでがディスコ路線にシフトさせたJames White and Blacks等、多岐にわたる前衛的で実験的かつ白人的とも言える独特のディスコ・ミュージックを産み落としていく事となりました。
今、改めて冷静に考えるとまず驚く事が、ZEレーベルが1979年を境に独自のディスコ路線を歩んでいった事です。時代的に言うとアメリアではそれまでのブームがあまりにも大きかった反動もあって、まさにその79年あたりを境にディスコ・ブームが急速に冷めていった時期でした(アメリカの大きな影響下にいた日本もまったく同じ状況に)。80年代に入るとあっという間に、全米的にはディスコ・ミュージック=ダサイ象徴(笑)ところがそんな状況にも関わらずZilkhaとEstebanは(ミュータントとはいえ/笑)ディスコ路線へと一気に走り続けたというのはやはり彼らがヨーロッパ出身だったという事が大きかったのではと思います。実際にヨーロッパでは80年代以降もアメリカの下火なんて事はなんのその、むしろヨーロッパ独自のディスコ路線が息づいていったのはそれ以降の事だと思える程の発展/進化を見せて行きます(そんな所に今日のユーロ・トランスやヨーロッパ哀愁的プログレッシブハウス等が栄えるヨーロッパ特有のシーンが存在する理由を感じます)。もちろん同じく79年にデビューしたパリの歌姫Lizzy Mercier Descloux(Estebanのガールフレンドでもあって、Cristinaと並んで2大歌姫と呼ばれました。驚く程様々なジャンルを吸収し多彩なアルバムをリリースし、僕もリアルタイムに大好きだったアーティストでしたが、残念ながら2004年に他界。)をアメリカに紹介するなんていうヨーロッパとアメリカの架け橋にもなったレーベルでもありました。
こんな機会に(笑)明日から僕が大好きなZEレーベルのミュータント・ディスコなアーティスト達を紹介して行こう思います(しかし喜ぶ人はいるのか)。僕的にシンプルに言うならばNEW WAVE DISCO、だからこそ一生大好き。